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wordpressの日記( https://yajiriinu.wordpress.com/ )の移植版

寿司がおいしくて泣きそうだよ

寿司を食った。それは信じられないくらいおいしい寿司。しかし、寿司の美味さが世界の他の誰にも理解されていなかったとしたら、こんなにおいしいと思わなかっただろう。

 

私たちはいつでもおっかなびっくり、人の目しか気にしないで生活していて、拒絶・隔絶・放棄されることを唯一恐れているものだ。個々人が互いに異質さを持つ”他者”であり、そのことを肯定せざるを得ない瞬間ばかりが人生にあるからそういう感情を持つようにできている。しかし、人間全体を貫く普遍性があることも事実である。異質な人間同士が感覚的に接続される瞬間がたしかにある(夕映えはきれいだとみんな思っているし、その感覚をひろく共有できていると信じきれている感覚のように)。普遍性を具現化したものの一部が思想や芸術に発展している。それらに携わる人たちは独自性を持ちながらいつでも普遍的であろうとしている。普遍的だからそれらのものは長く支持され続けている。

つまるところ、寿司をおいしいと感じるこの感覚は人間の精神の根深いところから起こる文化的なものであることに間違いない。「おいしい」という感覚は「あなた」を志向して外部に向けて発信される。「おいしい」と感じた瞬間に、周囲の”他者”と寿司の普遍性をもって接続される。だから「おいしい」は感覚として充実しているのだ。これがもし「うんこ踏んだ最悪」という気持ちでも同じ事が起こる。不幸なことがあったとき少しだけ喜びを感じるのは、その気持ちの当たり前さ加減に安心しているからだ。

 

たしかに接続されていると感じられる”他者”が身近にいることが人間にとって最大の幸福であろう(これは、モノやどうぶつでもおk)。寿司を食って美味くて泣ける人生に一片の悔いも残らないはずだ。あ!!!!!!!!!でもあれは許せない。100円少なく釣り銭渡されたこと。俺は数えていたぞ。ひゃくえんを馬鹿にするな。そのひゃくえんのために普遍寿司の感動は台無しだ。お前とは分かち合うことができなかった。俺は悲しいんだ。お前と共感できなくて、そのことがただひたすらに切ない。失われた俺たちの精神的交流。壊れた時計。ヤニのないタバコ。部品が廃盤になった万年筆。枯れた花。これがうちらの未来だ。あなたと4時間スタバでおしゃべりしてそのことを一生輝いた思い出として持って行きたかった。これが本当の気持ち。でも、私の心を温めるcoffee代にはあと100円、足らなかった。それだけのことだ。それっぽっちの喪失感。止まらない、涙が、ワサビで……………