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wordpressの日記( https://yajiriinu.wordpress.com/ )の移植版

思い川

 荒川をまたぐこの名もなき小橋は、現実上の泪橋である。深夜1時、黒い水面には河川敷に乱立する高層マンションの灯りが星のごとく反射していた。東京都であるというだけの理由で家賃が高いであろうこのマンションに住む有象無象たちの表情を、伊吹ジョーズは妄想していた。早く何らかの形で成功し、この橋の向こう側からこちら側を見下ろしたい。何を成し遂げようとしているのか、それは伊吹自身にもわからなかった。当然ボクシングは6歳の頃には食欲に負けて減量ができず挫折してしまった。中2の頃に買ったギターも、モテなくてやめた。高2の夏にはプロゲーマーデビューを志してはみたものの、母にユーチューバー専門スクールへの入学を大反対されたため断念。伊吹という人は、その逆境とも呼べぬような迂回すれば回避できるであろう問題にさえ、向き合える人間ではなかった。できることはひたすら憎悪すること。飽食の時代を憎み、女を憎み、親を憎み、その状態を十数年続けた伊吹は埼玉端子オックスフォード大学(俗称・タン塩大)に名前だけ書いて入学しモラトリアムの延長戦に突入していた。4年という猶予期間を謳歌する余裕さえ、今の伊吹にはない。とにかく伊吹が生きるには金が必要だった。金があればすべての問題は解決すると伊吹は信じている。今日も、この高層マンションに強盗に入るためのベスト・プランを練るために伊吹はこの小橋へ足を運んだのだ。たっぷりと水をたたえたこのどす黒い荒川に身を投じれば全てを終わらせてしまえる、という自棄クソ根性も脳内にかけめぐらせて伊吹は静かに狂っていた。

そのとき、鋭い破裂音とイヌのけたたましい鳴き声が同時に伊吹の両耳を貫く。荒川のこちら側でカップルが花火を始めていたのだ。ぴゅうぴゅう飛び散る火花が、カップルたちの灰色の破れたニューバランスのスニーカーを照らしている。それに呼応して荒川のあちら側のマンションで飼われているイヌが悲鳴をあげている。火花、灰色、喘ぐイヌ、ニューバランス、ぴゅうぴゅう笑う俺。伊吹はこの光景に爆笑していた。伊吹の爆笑はこの小橋の風景を構成する何者をも拭い去ってしまえるほど強烈なもので、外国人の釣り人や花火のカップル、川を飛び跳ねる魚、イヌ、夜空までもがこの笑い声を中心とした渦を形成しているかのようだ。伊吹の爆笑を中心とした森羅万象の渦渦渦、とにかくこのとき渦中にあった伊吹ジョーズは、間違いなく主人公だった。川べりの桜並木はもうすっかり青くなっていた。

 

 伊吹は昨夜の出来事を反芻し、結果お笑い芸人になることを決意した。人を笑う才能に恵まれていることに気がついたのだ。常人と感覚がかけ離れすぎている伊吹が他者と共通点を持つ術がお笑いくらいしかないこともまた事実であった。伊吹が師として崇めるユーチューバー・カルロス小西も「機会を待たずに今やりなさい。そして5年以内に形に残しなさい」と言っていたのを思い出す。伊吹が専門スクールの受験を断念したときからずっと胸に残していた言葉だった。他者への憎悪が強過ぎて完全に無視していたタン塩大のサークルの公式アカウントを早速ツイッターで検索する伊吹。しかし運動部とボランティアサークルしかヒットしない。彼らが学祭でたい焼きを250円という人を馬鹿にしたような値段で振舞っている写真などは伊吹の精神を最も著しく傷つける情報だった。俺より幸せそうな奴は赦せない。見渡せば見渡すほど憎むべき敵ばかりの伊吹には当然共にたい焼きなんぞを焼いて食うダチなんかいないのだ。また、たい焼きを買うためだけに遣われる金が赦せない。伊吹は毎食モヤシで、特別な日にしか醤油をかけない決まりだったのだ。そっとウィンドウを閉じた半日後、仕方なくインカレに頼ったところ、名門・東京ノッキングアウト大学(俗称・KO大)のお笑いサークルが随時部員を募集している旨のポストを目にした。その条件は、定期的に行われる大会に4ヶ月に1度は参加すること。それだけだった。それっぽち!伊吹の全身は空虚な自信と対象不明の優越感に震えた。年に3回ネタを書くだけだ。指の振動に任せてKO大お笑いサークルにDMを送った伊吹の足はスタイルバツグン・コーヒーショップへと向かっていた。ネタを書くなら当然スタバだ!

アイスコーヒーをデカフェで頼むという暴挙にもスタバ店員は応えてくれたが、これがどれほど有難いことか伊吹には感じ取ることができなかった。伊吹の視界は既に憎悪で満ち満ちており、全て敵、全て悪、全てを赦さないという一心に染め上がっていた。この憎悪こそがアイデンティティと信じ込んでいる伊吹にとっては、人を憎むことこそが自分が面白くなるための唯一の手段なのである。赦さない赦さない赦さない、血液が沸騰するような興奮状態でノートにペンを走らせていたそのとき!!!!!鮮烈に伊吹の瞳に飛び込んできたのは、伊吹が10年片思いしてきた幼馴染(と伊吹が勝手に認定している)・上植原パト子の姿だった。その妖艶な容姿から「セクシーピジョン」と呼ばれていた彼女の対面には有り得ないほど肥え太った男が座っている。その横幅はスタバの華奢な回転式籐椅子の2倍を優に超えるもので、ビックリ人間でしか見たことがないレベルである。伊吹に対しては志望校も教えてくれなかったようなセクシーピジョンが、今はこの巨男を前に相好を崩しまくっているではないか。伊吹は心臓が急激に冷え固まっていくのを感じつつ、かろうじてセクシーピジョンの視野から姿をくらますことが可能になるような席に移動することに成功した。新たな角度から垣間見えてしまった男の顔。こいつは…なんとカルロス小西だ!!!!!!小西は伊吹が動画を見なくなってから3ヶ月で推定150キロは太ってしまったようだ。懐かしさと好奇心が入り混じった感情を前に赦せない気持ちさえ忘れて伊吹は二人の会話に耳を傾ける。セクシーピジョンは赤羽にある看護の専門学校に進学していたようだ。小西が看護師の将来性と就職先の病院の選び方についてテキトーぬかしているのをセクシーピジョンは神妙な顔つきで聞いている。看護師は一般的な職種と異なり、土日が勤務日で平日に休みがとれる。だから若くて美形の医師がいる病院には就職してはならない。せっかく僕らが人の少ない平日にデートできるっていうのに、そいつに取られちゃったら元も子もないからネ。もお、バカなこというの、やめてよお。はぁ~~~~!!?!?!???!?伊吹はすかさずペンを取り、この怒りをノートに書きなぐっていった。赦せない赦せない赦せない、一心不乱にノートとセクシーピジョンと小西を交互に穴が開くほど見つめた。セクシーピジョンと小西のスタバデートは4時間にもわたり、その間伊吹はずっと盗聴をし続け、憧れていた二人には決して理解も共感も一切されないであろう愛憎入り混じる感情をペン先でもみくちゃにシバき倒していた。二人と伊吹の間には紛うことなき泪橋が架かっていた。伊吹は地獄の4時間を経験していた。

 

 22時。伊吹は真っ白に撃沈し、スタバ店員に閉店時間を知らせれてもしばらく動くことができなかった。おぼつかない足を交差させつつ帰路につくと、件のお笑いサークルの長より「タン塩大?聞いたことないけど、自分の名前漢字で書けるならOKです。字が汚すぎて読めないのはNGだけど」とやや斜め上を行くブラックジョークを交えたリプライが飛ばされていた。意味もなくニヤついて、伊吹は思索した。サークル主催の小芝居といえども賞レース、この長ならびに長の方向性に倣った方針でネタを書くほうが売れる確率はあがるのではないか。そのためにも過去の優勝作品をユーチューブで視聴したり、この長や周辺の幹部的な人間とコミュニケーションをとったり、そういう器用な根回しが必要になるのではないか。また、その行動が直接的には優勝に繋がらなかったとしても、人を憎むのをやめて素直に学び発表の場に挑戦するという経験が今後の人生を切り開く上で重要な手がかりになるのではないか。思考の森を歩きつつたどり着いた川口市のおんぼろアパートの鍵を開けて5秒後、伊吹は風呂も沸かさずおふとんの中にもぐりこんでしまった。伊吹もそこまでバカではない、とるべき手段や改善策を思いつきはするのだが、どうにもならないことに実行しないのである。実行しない理由はいくらでも思いつくが、どれも先刻から述べているとおり、どう考えても容易に迂回できるような理由ともつかない言い訳なのであった。伊吹はそのことにまだ気づくことができない。いくつもの挑戦をことごとく避けてきた伊吹は決定的に負けるという経験をしたことがないため、自分の間違いに無自覚のままぬくぬく生きてきてしまっているのだ。伊吹はこの後10時間、おふとんでぬくぬくした。

セクシーピジョンと小西の一件があって以来、伊吹のお笑いへの野心は幾ばくか減退したものの、有象無象たちに自らの力を誇示したいとの思い(憎悪)からネタ作りは進んでいった。もっとも、伊吹は怠慢な人間である。当然、他者から学ぼうとする謙虚さもなければ添削やアドバイスをしてもらえるほどの人脈も人望もなく、ひたすら油を水で薄めたようなネタが尺ばかりを引き伸ばしているのが現状である。しかしあの伊吹が2ヶ月も続けてひとつのことを熱心に(かどうかはさておき)続けていたのだから、伊吹にとってはその事実だけでも伊吹自身を鼓舞するに値するものであり、QOL向上に確かに一役買う要素として一定以上の価値のある行いだった。もう、あの小橋には訪れなくなっていた。今頃、桜並木は青から黄色に変色しつつあることだろう。

 

 こうして、KO大主催のお笑いコンクール「本気でバカやれまっかf●ckin'22」が開催日を迎えた。不器用極まりない伊吹もインターネットを通してなんとかエントリーできている。この間一度もKO大に足を運んだことがない(タン塩大も休学中)伊吹は、はじめて見る他の学生たちの覇気に気圧されるどころかお得意の憎悪感情をすこぶる昂ぶらせていた。俺よりも面白い奴は絶対に赦さない。俺よりもつまらないくせに笑ってくれる友達が多いからという理由でウケている奴は絶対に許さない。俺を面白がらせた奴も俺より優れているから絶対に許さない。伊吹はこうすることでしか自分の心を守れないと言ってもよい。つまりこの憎悪は伊吹なりの緊張の表出だったのである。すれ違う人を全て憎悪しつつ、誰よりも早足で人と人との間を縫うようにして会場へと歩を進めていく。

このコンクールは学生が主体で行っており、参加費も入場料も無料である代わりに物販で運用にかかる費用をまかなっているようだった。その中にたい焼きの出店は数件確認された。伊吹はそれらをもれなく無視しようとしたものの、「白いたい焼きの恋人」という文字列が刹那に伊吹の関心を引いた。その理由は単純で、セクシーピジョンと小西のヒミツのデート現場を目撃した伊吹の心中には弱者男性のスピリットが宿っていたためである。どうやら、かつて流行った「白いたい焼き」の生地を使用しており、本来であれば具を挟むためにあるはずの2枚の鯛を唇の部分のみくっつけた横長の形状で提供しているようだ。当然、そんなものは具なしで薄くて持ちづらいだけのたい焼き生地にすぎない。不格好で味も悪い俗物をありがたがってインスタのために写真を撮るカップルたちを伊吹は安心して見下すことができたものの、何ともなしに出店の真横のゴミ箱を一瞥した瞬間、驚愕のあまり急停止してしまった。

そこには一口も手の付けられていない「白いたい焼きの恋人」が、会場に設置された古い蛍光灯に照らされて浮き出るように光っていた。ゴミ箱にはほかに大量の包み紙やよその店で売っているジュースのプラカップや食べ残しが捨てられていて汚らしく混ざり合っていたにも関わらず、そのたい焼きには汚れひとつ付いていない状態だ。実際には写真を撮ったあとに捨てられたものでマナーの悪さを象徴する遺物であったのかもしれないが、とにかく伊吹の目にはこれが真の愛の形であるように見えた。たい焼きのバックグラウンドに横たわっているぐちゃぐちゃのゴミどもが伊吹の周りにいるカップル達であり、この捨てられた「白いたい焼きの恋人」こそが愛、伊吹が本当に求めているものであったのだと。伊吹は、なぜそう見えたかよりも見えたものに対して自分がどのように接していくかについて考え始めていた。伊吹が今回用意したネタは、醜い人間模様を描いた全部で3つのショートコント集。セクシーピジョンと小西のデート、幼い頃通っていたボクシングジムで自分をデブと罵ったコーチ、ユーチューバー専門スクールに行かせてくれなかった母、その他伊吹が憎悪しているものたちを歪曲させて作ったもので、実は3作は連続したストーリーを持つオムニバス形式にもなっている力作である。憎悪を原動力としていた伊吹の心にいま、愛が宿り始めている!伊吹はペンを走らせていた。ノートに書きなぐった赦せなさが、白いたい焼きによって愛で塗り替えられていく。伊吹はもともと温厚な心の持ち主であったため、愛と平和について語るに十分な雄弁さを持ち合わせているのであった。その隠れた才能、人を愛し人の幸せを願う心が紙面にほとばしる!!真っ黒なノートは黒鉛の反射で輝いていた。それを有象無象たちも見ている。伊吹は走り出した。舞台の幕は上がり、スポットライトが強力な光を放ち始め、今、開演時刻を迎えようとしている!

 

 「エントリーナンバー1番は本日初出場にして1番手を誰よりも早く名乗り出たナゾの新人、伊吹ジョーーーズ!!」

「ショートコント。幼馴染のデート現場についていった男。

(伊吹の心の声、録音の放送で)…お、あれってもしかして、僕が10年前からずっと好きだったパトちゃんじゃん!!ラッキー!

やあ、パトちゃん!オレだよ伊吹!高校のとき同じクラスだった…

あっ伊吹くん…?だっけ、久しぶりー。(目をそらす演技)

ね、ねえ!3年間同じクラスだったのに志望校も教えてもらえてなかったけど、今はどこいったの?

あたし?今はぁ、東京の北のほうにすんでるかなー。

き、北のほうって…その…市区町村とか…あの

えっ…(溜めて)市区町村聞く必要ある?いいじゃんカンケーないし(去ろうとする)

(食い気味に)じゃ学部は!大学では何やってるの!

学部?あー、まあいろいろかな!じゃ、ゴメンこのあとデートだから!

あっ(一瞬引きとめようとするがとどまる仕草)、うん!またねーーー!!!(惨めなほど大げさに手を振る)…デートだって!?どんなやつが相手なんだ!?

(しばらくコミカルに尾行する演技の後、舞台上の喫茶店セットに座る)

(伊吹)この喫茶店で待ち合わせだったのかー。相手の男は…

(男の声、すべて録音の放送で)あ、おまたせー。

(伊吹)え!?あの人150kgはあるけど!?

(男)ぴーちゃん待ったー?

(伊吹)ぴーちゃん!?本名とひとつもかすってないけど!?

(男)よっこらしょっと!(ガシャーン!と何かが壊れる音)

(伊吹)椅子からすごい音したけど!?

(パト子、すべて録音の放送で)カルくん、おそ~い!!

(伊吹)カルくん!?その見た目で!?

(カルロス小西)あーごめんごめん、またエレベーター止めちゃって遅くなっちゃったよー

(伊吹)そうだろうな!

(パト子)でさあ、あたしどーしても東京に住みたいってママにお願いして赤羽の看護学校行ったじゃん。

(伊吹)俺に言ってくれなかったこと、こいつには5秒で全部言ってくれるじゃん…

(パト子)でも看護とか全然キョーミないんだよねショージキ。カルくんいるから稼がなくてもいーし実習だるくてサイアク!

(カルロス小西)でも、ぴーちゃんの働いてるカッコイイ姿も見たいな。(語気強めで)ナース服でさ!!!

(伊吹)こっちがサイアクだよ…

(パト子)え~じゃあシューカツするー!!

(カルロス小西)でもね、若いお医者さんがひとりでやっている病院はダメね。ぴーちゃんカワイイから、そいつとデートしてたら僕たちのデート時間減っちゃうからね!

(パト子)もーやめてよ~!

(伊吹)デートすること自体はいいの!?パトちゃんも否定しないんだ!?

(パト子)あー、そーいえばここくるまでの間に高校のとき同じクラスだったっぽい人に会ったんだけどショージキ顔も覚えてなくてえ、なのに住んでる場所とか聞いてきてまじヤバかったー。

(伊吹)俺のことじゃん!

(カルロス小西)へー、男?

(パト子)うん。もう同窓会いけないかもー。そいついたら気まずいしー。

(伊吹)こっちもこんな現場見ちゃって気まずいわ…

(カルロス小西)ぴーちゃんのこと好きだったんじゃない?告られてくればー?

(パト子)キャーマジムリー!!

(伊吹)そうか…パトちゃん、」

伊吹はここで先刻ノートに書き加えたセリフを朗々と読み上げる。

「今までありがとう。きみが俺にくれた思い出は今でもずっと大切な宝物だ。きみを幸せにしてあげるどころか、喜ぶようなことひとつしてあげられず、そのくせ愛されたいと願った俺はバカだった。こんな情けない俺を許してくれ。

俺は今までの人生の中で何一つ成し遂げたものもなければ、褒められた記憶もない。習い事のコーチや親にも否定されてばかりだった俺はずっと誰かに愛されたくて、見ていてほしくて、そうしてくれない世の中をすべて憎んでいたんだ。でもきみを初めて見たとき、俺はきみをほかの誰よりも愛してあげたいと思うようになったんだ。きみが俺を変えてくれたんだよ、パトちゃん。

俺は自分のことを正しく客観視することができないんだ。もうずっと”できない人”として扱われているせいで俺も俺自身を信じることができないから、頭の中で常に俺を否定する声が鳴り続けてやまないんだ。こうしている今だって、きみに一方的に話しかけ続けている俺自身が嫌いでしょうがないよ。でもね、俺は芸人になったんだ。だからもしきみが少しでも俺のコントで笑ってくれたら、それだけで俺は生きていけるよ。きみを笑わせることができるなんて一生の誇りだから。きみの笑顔が俺にとって明日を生きる意味なんだ。

パトちゃん、大好きだよ。今はもう俺の知らない世界で俺の知らない男と東京で暮らしているんだから、俺がどうこうするつもりはない。でも埼玉のボロアパートできみのことを思いながら醜く努力している男がいることを、知っておいてくれると嬉しい。俺をこんな気持ちにさせてくれるなんて本当にきみは優しい子だね。ありがとう。さようなら…」

伊吹は深く一礼した。赦してくれ赦してくれ赦してくれ。

 

 静まり返った会場に向かい次のコントを披露しようとした矢先「続いてエントリーナンバー2番、前回優勝候補まで挙がったKO大の顔!ニシノーズ!!」と司会が遮り、スポットライトは伊吹を闇の中に取り残し逸れていった。運営役の学生に腕を引っ張られながらすごすご退場する伊吹の頭には「赦してくれ」の5文字しか浮かばない。伊吹の立っている闇の中からは観客の顔も見えないし、笑い声もあったかなかったか覚えていない。残り2作のショートコントを演じる前に退場させられてしまったことも伊吹にとってはどうでもよく、ただ心中には行方も知らぬままの愛が漂っていた。荒川の桜は裸になろうとしていた。