wordpress

wordpressの日記( https://yajiriinu.wordpress.com/ )の移植版

うんこしながら5分で思いついた思想「テキトー推進派」

2年の間に文字を書くということの価値を忘れようとしていたが、人間はあまり急には変われないので惰性で更新をしている。

 

惰性で絵を描くこともまったく描かないよりはマシ、惰性でバスケするのもミッチー(誰)よりはマシ、惰性でやってはいけないのは動物の世話くらいなものだ。つまり全力でやるかまったくやらないかの二択しか用意されていないもの以外は惰性でやったって別にいい。

そんな極端なものは世の中に滅多に存在していない。大抵、テキトーでも許容される。むしろ、テキトーに生きていることを咎めるのは不当な排除であるとさえ見られる風潮が強まっている、「コンプラ」というのはそのようなものだ。テキトーは悪いことではないし、むしろそうした曖昧さや不可解さの中にこそものごとの本質が宿っているのだから、それを重んじることは何も不自然なことではないのだ。

 

そもそも、テキトー(適当)という言葉は「妥当」の類義語である。ならば、テキトーであることは正当であり、ものごとの本質的な姿であるはずだ。

 

それなのに、テキトーだと成り立たないと信じられているものはたくさんある。テキトーさの許容が押し進められていく一方で、テキトーさを律する態度を成功への道として信奉する立場もまた存在している。テキトー廃絶主義者たちは、世の中を正しく見ることができていないと言える。なぜならテキトーが本来の姿であるので、そこから乖離した態度をとればとるほど事の発端から遠ざかっていくからだ。発端には本質が宿っている。「なぜ」の末端は全ての始まりに収斂する。

 

今こそテキトーさの重要性を見つめ直し、人類を本質的な存在として解放するべきだ。

 

暖かくなってきました。