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wordpressの日記( https://yajiriinu.wordpress.com/ )の移植版

大学大好き

学生の頃は大学が大好きで、好きな先生の授業ではっちゃけたカスレポートを書いたり発表をしたりして周囲の善良な学生たちを萎縮させることに張り切っていた。善良な大学だったので、善良な学生が多かった。文系は、そういうことをしても問題ない学部が多い。しかし、一時の気の迷いでふざけた創作話をレポートに挿入して提出したら一番高い評価をもらってしまった。いったいどんなカス授業かと思われるかもしれないが、授業も大学も先生も善良だったのに、私がカスなせいでなんか逆にまかり通ってしまったのだ。あと、元学校の先生とか子ども相手の仕事の経験がある先生にはわりとこういう手が通じてしまうことがある。罪悪感があって、反省した。

善良で素直な学生たちの中には私に興味を示してくれる方々もあって、彼らに提供するためのおもろそうな話題を抽出するためにひとつひとつの授業を聞いていた。一方で自分のカスおもろ感覚が他者を侵害しないように気を配ることを学んだ。

しかし、私と似た感覚で「自分はおもろい」という自信にみなぎり、他者を侵害することに無頓着な輩もあった。彼らは服のどこかに必ずボア素材が隠れていて、襟元をなおしたりベルトを調節したりするたびにボア素材からボアの微粒子が舞っており、滑稽だった。ボアズは、研究発表の授業の質問コーナーで自らの知識をひけらかしつつ発表者の作品の欠点を指摘するという本当に不躾なことを平気でやっていた。私の発表も「浅い」と言われた。しかし、いくら彼の主張を聞いても因縁つけてるようにしか思えないというか、正直そこ以外にも私の発表にはテキトーにごまかしてる部分がたくさんあるっていうのに、それらに気づけないからなんか目に付いたところを攻撃してるように見えた。私自身は「浅い」と言われても本当になんとも思わないが、あの大学の学生たちは本当に善良で素直なので、私よりも気の弱い子がボア野郎に難癖つけられて自信なくしちゃうようなこともあるだろうし、ボアズはきっとそれらに対して何の責任も取らないし自分は悪くないと一生思いこみ続けるだろう。ボアどもは世界にとって重大な損失だ。あの授業における負債だ。巨大なアリジゴクだ。絶対に許さない。

私は大学の先生が大好きなので先生の言葉を今でもずっと覚えている。ボアどものいた授業の先生は「質問は、発表者・質問者・教室にいる全員の三者にとって実のあるものでなくてはいけない。自分の知識をひけらかして発表者を圧倒するのはNG」とか、「今「それあなたの主観ですよね(ボア野郎が質問タイムで言い放った不躾な一言)」っていう質問ありましたけど、そんなの「はいそうですけど何か?」って言っときゃいいんです。意見は基本的に主観なので」とか、ボア対策をそれとはなしにしていた。私は先生の言うことに同意し、ボアを憎んだ。ボアは、お構いなしに、最後までずっとボアであり続けた。でも私はボアを過剰に批判せず攻撃された学生をフォローすることですべての学生の自由を平等に保証している先生をかっこいいと思った。

このように善良で寛容的でおもしろい大学が大好きだったのに、結局先生にひとつも感謝の気持ちを示すことなく卒業した。好きな先生全員と一度は飲み会などの席でご一緒してみたかった。私は、先生にレポートじゃなくて文を読ませ感想を聞きたかった。多分リアペにそう書いたこともあった。私は先生たちみたいになりたかった。先生と対等な立場で話ができたらおもしろいだろうにと、傲慢ながら思っていた。今では先生も大学ももう私の心の中にしかない。マジで、19歳に戻してくれよ。何回でも19歳を。あれぇ。まゆしぃの懐中止まっちゃってる……