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wordpressの日記( https://yajiriinu.wordpress.com/ )の移植版

マニア

「映画や本を短期間に大量に摂取している人はマニアではあっても、本当の映画好き・本好きとは思えない。なぜなら年に1本、1冊の作品にしか接することのない読者である私にとってはその選ばれた作品は非常に大きな感動を与えてくれるもので、あまりに大きすぎるために描写の隅々までずっと鮮明な記憶に残るほど味わい尽くすことができるが、1年に100の作品に触れているような人たちが私と同じような楽しみ方をしているとは思えないからだ」という意見がある。

これは本当にそうで、作中の描写の織り成す世界の中に感覚を研ぎ澄ませ堪能するためには余韻を残しておくための時間的な空白が必要になってくる。空白は多ければ多いほど、しばらく会わない間に互いを美化し再会の喜びを増幅させていく恋人同士のように対象の作品を見る際の解像度を上げ、より鋭敏な感覚を伴って聞き手の共感的な内的世界の中に作品は多くのディテールを孕んだ上で取り込まれていくこととなる。戦争映画のあとでゾンビ映画を見たら”台なし”になることが予想されるが、年に1000も2000も何かしらの作品に触れている人にはこの”台なし”を”台なし”にしないまま作品の価値を味わう必要が生じてくる。

この問題を解決する手っ取り早い手法が批評だ。以前批評に関する記事を書いたがこの話とは全く関係ない視点から話し始める。批評は簡単に言えば作品のどこに価値を見いだせるような可能性があるか探る行為だから、作品の良さをわかりよく言語化して世間に通じるような強度のある価値を作品につけることを意味する。これをすれば1年も時間をかけて内的世界と作品を同化することはできなくても、とりあえず自分が触れてきた作品のどこにどんな価値をなぜ見つけることができたのか、反芻することができる。批評が外部を志向する性質を持っている以上、個人的な体験や共感といった内的事項は作品を価値づける上では無視されるため、前後に摂取した作品との関連は絶たれる。こうしたシステムによって、批評は”台なし”を退けることに成功している。

だが本当に感動したときほど人は寡黙になるもので、気持ちが切実すぎるほど言語化することも一般化することも難しくなる。そもそも”感動”は個人的なものだから、批評と同じ土俵に感動を置くこと自体が無理で、この場合ちゃんと余白を作る以外に”台なし”を回避する術はない。だいいち何にどう感動したかなんてあまり人に向かってべらべら喋ることでもない。黙って無音のネットにつながらない部屋で3ヶ月過ごす以外にその感動を最大限味わう方法は存在しない。

それなのに、本や映画を毎日毎日鑑賞し続けている人たちはなぜいなくならないのか?そうする他に方法がないからだ。彼らは何らかの目的意識を持っている。人と人同士の血の通ったコミュニケーションのように、一期一会的偶然性(ご縁)を尊んでいる場合ではない何か大きな目的が。それは、大量に他者の言葉を摂取していないと自分が自分でわからなくなるという存在の強迫的な問題である場合もあれば、表現のジャンクで肥え太ることで自分を何者かだと思っていないと気がすまないという存在の強迫的な問題、さらに模倣の対象を欲するあまりの存在の強迫的な問題……文芸が好きな人は大抵哲学が極端に好きか嫌いかだ。それは彼らが自分の存在を人生において何かしらに賭したいと感じていて、そのために自らをあまりに穴が開くほど見つめすぎたために背景と同化して透明のように見えてしまっているせいで、存在について考え続けていなければいけないように自主的に矯正しているからだ。

強制的読書体験は発育を妨げるが、矯正的読書体験は人の中に大量に蓄えられている種子に栄養を与え発芽させてやがて大樹に育てるために必要な過程だ。だから一人でパソコンの前に向かっているからといってそんなに責めないでほしい。もうやめてくれ。頼むから、こっちを見ないでくれ…………