急いでいるときに限って奇っ怪な出来事に遭遇する。日記に嘘しか書かない私にも、とうとうあまりにも異常すぎるが故にありのまま描写しても嘘にしか見えないような真実を述べるときが来たようだ。
日暮里に、ゲーミングゴキブリとしかいいようのないものがあった。それが生き物なのか無機物なのか全くわからないが、とにかくゴキブリみたいな黒いもやもやしたものがゴキブリみたいなスピードで床を駆け抜けており、それは夜に散歩してる犬に括り付けられた首輪のように七色の光線を放っていた。

明らかに犬の首輪みたいなLEDの光だったが、LEDが黒い物体にくくりつけられているようには見えず、まるで黒い物体の内臓がLEDであるかのようだった。内臓がLEDであるにも関わらずそれが虫であるように見えたのは、もやもやしたシルエットが虫の脚に見えたからだ。脚は明らかに6本以上はあり、高速でそれらが動き、なおさらその輪郭を曖昧な形にしていた。
その動きはまるで硬貨がなめらかに転がっているような弧を描いた走行であった。しかしただのゲーミング硬貨であればありえないことに、人を避けるように方向転換しながら、あの日暮里の汚れた白い床の上を、自販機の下まで移動していったのである。
日暮里から新宿方面の電車に乗り換えると、私よりもかなり小柄な中年男が右手方面から歩いてきた。その男は1人で歩いており、20年前のしまむらでしか売っていなかったようななんともいえない色のなんともいえない形状の半袖シャツを着用していたが、暑い季節の割に汗ジミもなく、清潔な雰囲気をまとっていた。
その男に「あの、突然声をかけてしまってすみません。ちょっといいですか」とかなり長めの前口上を聞かされた。長すぎて、この間に5回くらいは頷いたと思う。そして遠慮がちに「菓子パンやコッペパンみたいな、お惣菜のパンは好きですか?」と尋ねた。
これを聞いた私の脳内には5通りくらいの対処法が思い浮かび、5つを吟味するために3秒ほど要した。もし「はい」と言えばパンをもらえるか男が経営しているパン屋のチラシをもらえるか、あるいは唐突に刺される可能性もあった。パンをもらった場合、そのパンに毒が入っているまたは消費期限切れで安全に食せる状態でないケース、あるいは大量すぎて持っていくのに困るケースが考えられるためリスクが大きい。おっさんのパン屋を紹介される場合、前口上でさえ5頷きタイム(nodding per second)を要するほど要領を得ないおっさんのセールストークが終わるまでいつまでたっても新宿行き電車に乗れないと予想される。気を許すと刺されるか、おっさんの背後に控えている犯罪組織に拉致される危険性もある。「いいえ」と答えた場合はなおさら刺される危険性が跳ね上がる。無視するのも「いいえ」と同様リスクがある。
そこで私が選んだ応答は「えと……………ナゼ…………?????」である。理由を聞いて相手に説明の機会を与えればその話の内容や態度からおっさんがイカれてるかそうでないかの判別もつくし、これからなにをするつもりなのか理解できてさえいれば唐突なパンアンケートにも答えられるというものだ。非常に合理的な判断である。
それだというのに!!!!!!おっさんは「じゃあいいです」とだけ言い残し、足早に去っていった。私は伏線を張るだけ張っておいて回収しない、風呂敷を広げるだけ広げておいて畳まない映画が大嫌いなので(結論を描かない系もマジで嫌い)、このおっさんに対しても不信感より怒りのほうを強く抱いた。しかし急いで新宿に向かう必要がある私には、電車をパスしてまでその後のおっさんの動向を観察する余裕がなかった。少なくとも、おっさんは私以外の通行人は無視して去っていったと思われた。
ゲーミングゴキブリ、パン屋のおっさんは私に謎だけを残し、その謎はこの日の一時的な忙しさの中に溶けてなくなっていった。忙しくさえなかったらこれらの怪奇現象を徹底解明するまで私は日暮里にとどまり続けるつもりだったのに、忙しさは好奇心を殺してしまう。きっと何にも興味がなく無趣味だという人間は常に忙殺されているに違いない。そうでなければ無趣味な人間の存在は許されない。マジでショート動画見て寝てる暇あったら日暮里で降りて私と同じものを目撃するまで帰らないでほしい。全無趣味人の時間的リソースをそれに使ったら、おそらく2日もあれば両方解明されるというのに、まったく無駄が過ぎる。無趣味な人間どもが10年単位で使い古したブランケットを枕がわりにしてダラダラしてる間に、私は3万円以上するバカ高い枕に頭を預けながら奇っ怪な現象について考察しているのだ。本当にどうかしている。