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wordpressの日記( https://yajiriinu.wordpress.com/ )の移植版

鏡の中のアクトレス事件の登場人物全員反省させる回

10代の頃運営していたイタいX(旧Twitter)のアカウントが消えてくれていた。イーロンマスクありがとう。そのアカウントは、イラブのハッカーに乗っ取られパスワードも変えられてスパムアカウントに成り下がっていたものの、わずか3日でハッカーによるやたら長いURLのついたふしだらな投稿も途絶えもう誰にも見向きされない凄惨な姿だけデジタルデータに残していた、ネット上のダークツアリズムスポットになっていたものである。アイコンは四角くてふぁぼが星マークだったし引用リツイートの機能がなかったから手作業でコピペしていたあの頃。おそらく当時リプを飛ばしあっていたフォロワーどももおっさんやおばさんになっているだろうし、その大半は私と同じように負の遺産になっているはずだ。

 

なぜ人は自分の過去の愚かさを定期的に思い返してしまうのか?イタXアカウントはもう変えようもない過去の話だし、さすがに10代のころと今とでは思考が異なるから反省して今後に活かそうとしたとて現実的には無意味だし、思い出しても不快になるだけだ。それでもやっぱり蘇る自罰的な衝動の正体は何か?そのヒントは「鏡の中のアクトレス事件」に隠されている。

(次の動画にはアグレッシブな口論の様子が記録されているため、人が感情的に声を荒らげる様子を見るのがつらい人は再生しないことをおすすめします)

あまりにも有名なこの動画は、家庭環境に恵まれている者とそうでない者を判別するためのリトマス紙として広く認知されている。

常に威圧的で母娘より優位に立っていないと気がすまない父、能力が低い上にそんな父に辟易とするあまり素直に謝ることも適切に感情を表現することもできない母、ただ気の毒な娘。さまざまな世論があるが、こういうとき夫婦を客観的に見てどちらが支持するに足る人物か正確にジャッジできるのは子ども(娘)である。娘はどちらかというと母側の味方になっているような態度が見られるため、どちらかというと母のほうに正しさがあるといえよう。もちろん同性同士の精神的つながりから日頃母と一緒になって父の悪口を言っていたような背景があるとすれば、父に対して不公平な判断にはなってしまう。しかし娘は父母双方に対して「もうやめて」とか「どうでもいい」とか自分の考えを言えているし、その際は母に過度に肩入れするようなこともなかったので、それなりの精度で善悪を判断し表現することができると考えられる。よって娘の態度を見ると、父のほうが理不尽なキレ方を日常的にしていて、何度もそのような態度をとられ続けた結果として母も大声(ヒス)で黙ってもらうことでとりあえず自分の心を守らないと限界を超えてしまうようなラインにきていたため、もともと上手に気持ちを人に伝えることが能力的に苦手だったことも相まってやむを得ずパルキア化してしまったのではないかと考えられる。同じ人間と何十年も一緒に居れば当然起こりうる事件である。「ごめんなさい自分が間違ってた」を互いに自然に何も気負わず言えるような時期はとうの昔に去り、最低限あるべき思いやりの維持・回復が何らかの理由でできなかった(またはしなかった)ツケが回ってきたのであろう。

こういうとき、こういう相手にこそ、過去の愚かさを自ら省みる態度が求められているのではないか。過去は変えられないし過去の自分と今の自分は違うからカンケーないと思ったとしても、夫婦のように他人との長い付き合いを良好に保つためには、持って生まれた性格や生育環境の影響を受けて後天的に獲得した偏見を確証バイアスを打破してでも反省し直さなくてはならないからだ。人に備わっている内省の機能は、健全な人間関係の構築ならびに生存確率の底上げや適切な環境下で子孫を残すことのために必要なのである。つまり生物にとって内省は非常に重要な役割を持つ心理なのだ。だから犬も悪いことしたら反省するし、叱られた記憶はずっと持っている。人間の鬱っぽさは犬の能力と同じことだ。

 

そのため、反省ができない生物はいずれ淘汰される。あ!!!!!!自分の中で反省しただけでそれを迷惑かけた本人に謝罪など適切な形で伝えることもせずアッサリと音信不通にしてサッサと次の人間関係に活かそうなどという人を踏み台にするようなナメた行動は反省とは言わないぞ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!私はそれをされた相手を一生覚えている。やり直すチャンスを何度も与えたのにもかかわらず無下にするような愚か者は大人しく淘汰されるがよい。モーゼが偶像になるとしたらそれは私か、犬の姿をしているはずだから。絶対に許さない。

思い川

 荒川をまたぐこの名もなき小橋は、現実上の泪橋である。深夜1時、黒い水面には河川敷に乱立する高層マンションの灯りが星のごとく反射していた。東京都であるというだけの理由で家賃が高いであろうこのマンションに住む有象無象たちの表情を、伊吹ジョーズは妄想していた。早く何らかの形で成功し、この橋の向こう側からこちら側を見下ろしたい。何を成し遂げようとしているのか、それは伊吹自身にもわからなかった。当然ボクシングは6歳の頃には食欲に負けて減量ができず挫折してしまった。中2の頃に買ったギターも、モテなくてやめた。高2の夏にはプロゲーマーデビューを志してはみたものの、母にユーチューバー専門スクールへの入学を大反対されたため断念。伊吹という人は、その逆境とも呼べぬような迂回すれば回避できるであろう問題にさえ、向き合える人間ではなかった。できることはひたすら憎悪すること。飽食の時代を憎み、女を憎み、親を憎み、その状態を十数年続けた伊吹は埼玉端子オックスフォード大学(俗称・タン塩大)に名前だけ書いて入学しモラトリアムの延長戦に突入していた。4年という猶予期間を謳歌する余裕さえ、今の伊吹にはない。とにかく伊吹が生きるには金が必要だった。金があればすべての問題は解決すると伊吹は信じている。今日も、この高層マンションに強盗に入るためのベスト・プランを練るために伊吹はこの小橋へ足を運んだのだ。たっぷりと水をたたえたこのどす黒い荒川に身を投じれば全てを終わらせてしまえる、という自棄クソ根性も脳内にかけめぐらせて伊吹は静かに狂っていた。

そのとき、鋭い破裂音とイヌのけたたましい鳴き声が同時に伊吹の両耳を貫く。荒川のこちら側でカップルが花火を始めていたのだ。ぴゅうぴゅう飛び散る火花が、カップルたちの灰色の破れたニューバランスのスニーカーを照らしている。それに呼応して荒川のあちら側のマンションで飼われているイヌが悲鳴をあげている。火花、灰色、喘ぐイヌ、ニューバランス、ぴゅうぴゅう笑う俺。伊吹はこの光景に爆笑していた。伊吹の爆笑はこの小橋の風景を構成する何者をも拭い去ってしまえるほど強烈なもので、外国人の釣り人や花火のカップル、川を飛び跳ねる魚、イヌ、夜空までもがこの笑い声を中心とした渦を形成しているかのようだ。伊吹の爆笑を中心とした森羅万象の渦渦渦、とにかくこのとき渦中にあった伊吹ジョーズは、間違いなく主人公だった。川べりの桜並木はもうすっかり青くなっていた。

 

 伊吹は昨夜の出来事を反芻し、結果お笑い芸人になることを決意した。人を笑う才能に恵まれていることに気がついたのだ。常人と感覚がかけ離れすぎている伊吹が他者と共通点を持つ術がお笑いくらいしかないこともまた事実であった。伊吹が師として崇めるユーチューバー・カルロス小西も「機会を待たずに今やりなさい。そして5年以内に形に残しなさい」と言っていたのを思い出す。伊吹が専門スクールの受験を断念したときからずっと胸に残していた言葉だった。他者への憎悪が強過ぎて完全に無視していたタン塩大のサークルの公式アカウントを早速ツイッターで検索する伊吹。しかし運動部とボランティアサークルしかヒットしない。彼らが学祭でたい焼きを250円という人を馬鹿にしたような値段で振舞っている写真などは伊吹の精神を最も著しく傷つける情報だった。俺より幸せそうな奴は赦せない。見渡せば見渡すほど憎むべき敵ばかりの伊吹には当然共にたい焼きなんぞを焼いて食うダチなんかいないのだ。また、たい焼きを買うためだけに遣われる金が赦せない。伊吹は毎食モヤシで、特別な日にしか醤油をかけない決まりだったのだ。そっとウィンドウを閉じた半日後、仕方なくインカレに頼ったところ、名門・東京ノッキングアウト大学(俗称・KO大)のお笑いサークルが随時部員を募集している旨のポストを目にした。その条件は、定期的に行われる大会に4ヶ月に1度は参加すること。それだけだった。それっぽち!伊吹の全身は空虚な自信と対象不明の優越感に震えた。年に3回ネタを書くだけだ。指の振動に任せてKO大お笑いサークルにDMを送った伊吹の足はスタイルバツグン・コーヒーショップへと向かっていた。ネタを書くなら当然スタバだ!

アイスコーヒーをデカフェで頼むという暴挙にもスタバ店員は応えてくれたが、これがどれほど有難いことか伊吹には感じ取ることができなかった。伊吹の視界は既に憎悪で満ち満ちており、全て敵、全て悪、全てを赦さないという一心に染め上がっていた。この憎悪こそがアイデンティティと信じ込んでいる伊吹にとっては、人を憎むことこそが自分が面白くなるための唯一の手段なのである。赦さない赦さない赦さない、血液が沸騰するような興奮状態でノートにペンを走らせていたそのとき!!!!!鮮烈に伊吹の瞳に飛び込んできたのは、伊吹が10年片思いしてきた幼馴染(と伊吹が勝手に認定している)・上植原パト子の姿だった。その妖艶な容姿から「セクシーピジョン」と呼ばれていた彼女の対面には有り得ないほど肥え太った男が座っている。その横幅はスタバの華奢な回転式籐椅子の2倍を優に超えるもので、ビックリ人間でしか見たことがないレベルである。伊吹に対しては志望校も教えてくれなかったようなセクシーピジョンが、今はこの巨男を前に相好を崩しまくっているではないか。伊吹は心臓が急激に冷え固まっていくのを感じつつ、かろうじてセクシーピジョンの視野から姿をくらますことが可能になるような席に移動することに成功した。新たな角度から垣間見えてしまった男の顔。こいつは…なんとカルロス小西だ!!!!!!小西は伊吹が動画を見なくなってから3ヶ月で推定150キロは太ってしまったようだ。懐かしさと好奇心が入り混じった感情を前に赦せない気持ちさえ忘れて伊吹は二人の会話に耳を傾ける。セクシーピジョンは赤羽にある看護の専門学校に進学していたようだ。小西が看護師の将来性と就職先の病院の選び方についてテキトーぬかしているのをセクシーピジョンは神妙な顔つきで聞いている。看護師は一般的な職種と異なり、土日が勤務日で平日に休みがとれる。だから若くて美形の医師がいる病院には就職してはならない。せっかく僕らが人の少ない平日にデートできるっていうのに、そいつに取られちゃったら元も子もないからネ。もお、バカなこというの、やめてよお。はぁ~~~~!!?!?!???!?伊吹はすかさずペンを取り、この怒りをノートに書きなぐっていった。赦せない赦せない赦せない、一心不乱にノートとセクシーピジョンと小西を交互に穴が開くほど見つめた。セクシーピジョンと小西のスタバデートは4時間にもわたり、その間伊吹はずっと盗聴をし続け、憧れていた二人には決して理解も共感も一切されないであろう愛憎入り混じる感情をペン先でもみくちゃにシバき倒していた。二人と伊吹の間には紛うことなき泪橋が架かっていた。伊吹は地獄の4時間を経験していた。

 

 22時。伊吹は真っ白に撃沈し、スタバ店員に閉店時間を知らせれてもしばらく動くことができなかった。おぼつかない足を交差させつつ帰路につくと、件のお笑いサークルの長より「タン塩大?聞いたことないけど、自分の名前漢字で書けるならOKです。字が汚すぎて読めないのはNGだけど」とやや斜め上を行くブラックジョークを交えたリプライが飛ばされていた。意味もなくニヤついて、伊吹は思索した。サークル主催の小芝居といえども賞レース、この長ならびに長の方向性に倣った方針でネタを書くほうが売れる確率はあがるのではないか。そのためにも過去の優勝作品をユーチューブで視聴したり、この長や周辺の幹部的な人間とコミュニケーションをとったり、そういう器用な根回しが必要になるのではないか。また、その行動が直接的には優勝に繋がらなかったとしても、人を憎むのをやめて素直に学び発表の場に挑戦するという経験が今後の人生を切り開く上で重要な手がかりになるのではないか。思考の森を歩きつつたどり着いた川口市のおんぼろアパートの鍵を開けて5秒後、伊吹は風呂も沸かさずおふとんの中にもぐりこんでしまった。伊吹もそこまでバカではない、とるべき手段や改善策を思いつきはするのだが、どうにもならないことに実行しないのである。実行しない理由はいくらでも思いつくが、どれも先刻から述べているとおり、どう考えても容易に迂回できるような理由ともつかない言い訳なのであった。伊吹はそのことにまだ気づくことができない。いくつもの挑戦をことごとく避けてきた伊吹は決定的に負けるという経験をしたことがないため、自分の間違いに無自覚のままぬくぬく生きてきてしまっているのだ。伊吹はこの後10時間、おふとんでぬくぬくした。

セクシーピジョンと小西の一件があって以来、伊吹のお笑いへの野心は幾ばくか減退したものの、有象無象たちに自らの力を誇示したいとの思い(憎悪)からネタ作りは進んでいった。もっとも、伊吹は怠慢な人間である。当然、他者から学ぼうとする謙虚さもなければ添削やアドバイスをしてもらえるほどの人脈も人望もなく、ひたすら油を水で薄めたようなネタが尺ばかりを引き伸ばしているのが現状である。しかしあの伊吹が2ヶ月も続けてひとつのことを熱心に(かどうかはさておき)続けていたのだから、伊吹にとってはその事実だけでも伊吹自身を鼓舞するに値するものであり、QOL向上に確かに一役買う要素として一定以上の価値のある行いだった。もう、あの小橋には訪れなくなっていた。今頃、桜並木は青から黄色に変色しつつあることだろう。

 

 こうして、KO大主催のお笑いコンクール「本気でバカやれまっかf●ckin'22」が開催日を迎えた。不器用極まりない伊吹もインターネットを通してなんとかエントリーできている。この間一度もKO大に足を運んだことがない(タン塩大も休学中)伊吹は、はじめて見る他の学生たちの覇気に気圧されるどころかお得意の憎悪感情をすこぶる昂ぶらせていた。俺よりも面白い奴は絶対に赦さない。俺よりもつまらないくせに笑ってくれる友達が多いからという理由でウケている奴は絶対に許さない。俺を面白がらせた奴も俺より優れているから絶対に許さない。伊吹はこうすることでしか自分の心を守れないと言ってもよい。つまりこの憎悪は伊吹なりの緊張の表出だったのである。すれ違う人を全て憎悪しつつ、誰よりも早足で人と人との間を縫うようにして会場へと歩を進めていく。

このコンクールは学生が主体で行っており、参加費も入場料も無料である代わりに物販で運用にかかる費用をまかなっているようだった。その中にたい焼きの出店は数件確認された。伊吹はそれらをもれなく無視しようとしたものの、「白いたい焼きの恋人」という文字列が刹那に伊吹の関心を引いた。その理由は単純で、セクシーピジョンと小西のヒミツのデート現場を目撃した伊吹の心中には弱者男性のスピリットが宿っていたためである。どうやら、かつて流行った「白いたい焼き」の生地を使用しており、本来であれば具を挟むためにあるはずの2枚の鯛を唇の部分のみくっつけた横長の形状で提供しているようだ。当然、そんなものは具なしで薄くて持ちづらいだけのたい焼き生地にすぎない。不格好で味も悪い俗物をありがたがってインスタのために写真を撮るカップルたちを伊吹は安心して見下すことができたものの、何ともなしに出店の真横のゴミ箱を一瞥した瞬間、驚愕のあまり急停止してしまった。

そこには一口も手の付けられていない「白いたい焼きの恋人」が、会場に設置された古い蛍光灯に照らされて浮き出るように光っていた。ゴミ箱にはほかに大量の包み紙やよその店で売っているジュースのプラカップや食べ残しが捨てられていて汚らしく混ざり合っていたにも関わらず、そのたい焼きには汚れひとつ付いていない状態だ。実際には写真を撮ったあとに捨てられたものでマナーの悪さを象徴する遺物であったのかもしれないが、とにかく伊吹の目にはこれが真の愛の形であるように見えた。たい焼きのバックグラウンドに横たわっているぐちゃぐちゃのゴミどもが伊吹の周りにいるカップル達であり、この捨てられた「白いたい焼きの恋人」こそが愛、伊吹が本当に求めているものであったのだと。伊吹は、なぜそう見えたかよりも見えたものに対して自分がどのように接していくかについて考え始めていた。伊吹が今回用意したネタは、醜い人間模様を描いた全部で3つのショートコント集。セクシーピジョンと小西のデート、幼い頃通っていたボクシングジムで自分をデブと罵ったコーチ、ユーチューバー専門スクールに行かせてくれなかった母、その他伊吹が憎悪しているものたちを歪曲させて作ったもので、実は3作は連続したストーリーを持つオムニバス形式にもなっている力作である。憎悪を原動力としていた伊吹の心にいま、愛が宿り始めている!伊吹はペンを走らせていた。ノートに書きなぐった赦せなさが、白いたい焼きによって愛で塗り替えられていく。伊吹はもともと温厚な心の持ち主であったため、愛と平和について語るに十分な雄弁さを持ち合わせているのであった。その隠れた才能、人を愛し人の幸せを願う心が紙面にほとばしる!!真っ黒なノートは黒鉛の反射で輝いていた。それを有象無象たちも見ている。伊吹は走り出した。舞台の幕は上がり、スポットライトが強力な光を放ち始め、今、開演時刻を迎えようとしている!

 

 「エントリーナンバー1番は本日初出場にして1番手を誰よりも早く名乗り出たナゾの新人、伊吹ジョーーーズ!!」

「ショートコント。幼馴染のデート現場についていった男。

(伊吹の心の声、録音の放送で)…お、あれってもしかして、僕が10年前からずっと好きだったパトちゃんじゃん!!ラッキー!

やあ、パトちゃん!オレだよ伊吹!高校のとき同じクラスだった…

あっ伊吹くん…?だっけ、久しぶりー。(目をそらす演技)

ね、ねえ!3年間同じクラスだったのに志望校も教えてもらえてなかったけど、今はどこいったの?

あたし?今はぁ、東京の北のほうにすんでるかなー。

き、北のほうって…その…市区町村とか…あの

えっ…(溜めて)市区町村聞く必要ある?いいじゃんカンケーないし(去ろうとする)

(食い気味に)じゃ学部は!大学では何やってるの!

学部?あー、まあいろいろかな!じゃ、ゴメンこのあとデートだから!

あっ(一瞬引きとめようとするがとどまる仕草)、うん!またねーーー!!!(惨めなほど大げさに手を振る)…デートだって!?どんなやつが相手なんだ!?

(しばらくコミカルに尾行する演技の後、舞台上の喫茶店セットに座る)

(伊吹)この喫茶店で待ち合わせだったのかー。相手の男は…

(男の声、すべて録音の放送で)あ、おまたせー。

(伊吹)え!?あの人150kgはあるけど!?

(男)ぴーちゃん待ったー?

(伊吹)ぴーちゃん!?本名とひとつもかすってないけど!?

(男)よっこらしょっと!(ガシャーン!と何かが壊れる音)

(伊吹)椅子からすごい音したけど!?

(パト子、すべて録音の放送で)カルくん、おそ~い!!

(伊吹)カルくん!?その見た目で!?

(カルロス小西)あーごめんごめん、またエレベーター止めちゃって遅くなっちゃったよー

(伊吹)そうだろうな!

(パト子)でさあ、あたしどーしても東京に住みたいってママにお願いして赤羽の看護学校行ったじゃん。

(伊吹)俺に言ってくれなかったこと、こいつには5秒で全部言ってくれるじゃん…

(パト子)でも看護とか全然キョーミないんだよねショージキ。カルくんいるから稼がなくてもいーし実習だるくてサイアク!

(カルロス小西)でも、ぴーちゃんの働いてるカッコイイ姿も見たいな。(語気強めで)ナース服でさ!!!

(伊吹)こっちがサイアクだよ…

(パト子)え~じゃあシューカツするー!!

(カルロス小西)でもね、若いお医者さんがひとりでやっている病院はダメね。ぴーちゃんカワイイから、そいつとデートしてたら僕たちのデート時間減っちゃうからね!

(パト子)もーやめてよ~!

(伊吹)デートすること自体はいいの!?パトちゃんも否定しないんだ!?

(パト子)あー、そーいえばここくるまでの間に高校のとき同じクラスだったっぽい人に会ったんだけどショージキ顔も覚えてなくてえ、なのに住んでる場所とか聞いてきてまじヤバかったー。

(伊吹)俺のことじゃん!

(カルロス小西)へー、男?

(パト子)うん。もう同窓会いけないかもー。そいついたら気まずいしー。

(伊吹)こっちもこんな現場見ちゃって気まずいわ…

(カルロス小西)ぴーちゃんのこと好きだったんじゃない?告られてくればー?

(パト子)キャーマジムリー!!

(伊吹)そうか…パトちゃん、」

伊吹はここで先刻ノートに書き加えたセリフを朗々と読み上げる。

「今までありがとう。きみが俺にくれた思い出は今でもずっと大切な宝物だ。きみを幸せにしてあげるどころか、喜ぶようなことひとつしてあげられず、そのくせ愛されたいと願った俺はバカだった。こんな情けない俺を許してくれ。

俺は今までの人生の中で何一つ成し遂げたものもなければ、褒められた記憶もない。習い事のコーチや親にも否定されてばかりだった俺はずっと誰かに愛されたくて、見ていてほしくて、そうしてくれない世の中をすべて憎んでいたんだ。でもきみを初めて見たとき、俺はきみをほかの誰よりも愛してあげたいと思うようになったんだ。きみが俺を変えてくれたんだよ、パトちゃん。

俺は自分のことを正しく客観視することができないんだ。もうずっと”できない人”として扱われているせいで俺も俺自身を信じることができないから、頭の中で常に俺を否定する声が鳴り続けてやまないんだ。こうしている今だって、きみに一方的に話しかけ続けている俺自身が嫌いでしょうがないよ。でもね、俺は芸人になったんだ。だからもしきみが少しでも俺のコントで笑ってくれたら、それだけで俺は生きていけるよ。きみを笑わせることができるなんて一生の誇りだから。きみの笑顔が俺にとって明日を生きる意味なんだ。

パトちゃん、大好きだよ。今はもう俺の知らない世界で俺の知らない男と東京で暮らしているんだから、俺がどうこうするつもりはない。でも埼玉のボロアパートできみのことを思いながら醜く努力している男がいることを、知っておいてくれると嬉しい。俺をこんな気持ちにさせてくれるなんて本当にきみは優しい子だね。ありがとう。さようなら…」

伊吹は深く一礼した。赦してくれ赦してくれ赦してくれ。

 

 静まり返った会場に向かい次のコントを披露しようとした矢先「続いてエントリーナンバー2番、前回優勝候補まで挙がったKO大の顔!ニシノーズ!!」と司会が遮り、スポットライトは伊吹を闇の中に取り残し逸れていった。運営役の学生に腕を引っ張られながらすごすご退場する伊吹の頭には「赦してくれ」の5文字しか浮かばない。伊吹の立っている闇の中からは観客の顔も見えないし、笑い声もあったかなかったか覚えていない。残り2作のショートコントを演じる前に退場させられてしまったことも伊吹にとってはどうでもよく、ただ心中には行方も知らぬままの愛が漂っていた。荒川の桜は裸になろうとしていた。

朝めざめるアラームを俺にくれ

ヨーグルトを購入するということはそれをあと1週間以内に全て食べる計画を描く行為に等しい。逆に言うと、無計画にヨーグルトを購入するべきではない。いきものを買うときは買ったあとの計画を立てるのが普通だが、モノに対しても計画性を持っていられるかどうかが生活力の差のつき所である。

しかし計画など立てなくてもいいすばらしい買い物がある。CDである。ほかの趣味と比べて場所もさほどとらないし、本やゲームと違って開封してもしなくてもいい(youtubeとかで聞けるから…)、楽器やスポーツの道具と異なり使わなくても罪悪感がないところが優れている。なによりCDというのはハード面の構造の単純さゆえに誰でも作れるのが非常に美点であり、個人が趣味で手作りしたものを手に取ってみるとそいつの部屋の匂いが歌詞カードとかに普通に染み付いているため、作り手の生活をかなりダイレクトに感じることができる。つまり、CDあつめを通してヘブンズドアができる上に、それをすることで他者に後ろめたさを感じる必要もないというのだから、こんなことが可能になる買い物は他に類を見ない。そうであるのでドンキホーテの次に好きなチェーン店はディスクユニオンである。

 

以前ちょっとヒップホップの話をした際に触れたが”定番”よりはそこから外れたものたちを私は特に求めている。通常状態からの逸脱を探求すると学問ならびにギャグにつながるという話は笑いのすごさを論理的に説明したときにもうしているが、ギャグと音楽とアカデミーの組み合わせを見事体現したグループに「キングニート」がある。

詞や曲やアレンジが当たり前のようにどの曲もいいのだが、こちら「神楽もぐとご飯もぐもぐ」では寸分の隙もないナンセンスが体現されている。Shing02みたいな天才すぎる人の作品は緻密すぎてかえって考えすぎてしまうし、スチャダラまでコミカル路線になると頭の良さにサヨナラすることになる(これはいいこと)が、この曲は散文詩でもありうるしコントのようでもありながら音楽性を保っているからすごい。

特に奢るのがティラミスなのが、良い。ティラミスというチョイスは”神楽もぐ”という人物に対して何ら具体的イメージを持たせないので、”特に共通の話題もなく行くべきデートスポットもないからとりあえず入った喫茶店でおそらく冷凍であろうティラミスをおいしそうに食べるオレの理想のイマジナリー女性”という質感が一気に集約されるワンフレーズである。「ティラミス」の無機質さと「もぐチャン」と気安く呼ぶ距離感とのギャップがもたらす効果には驚嘆せざるを得ない。かと思えば、理智とテクを多分に含んだ押韻の連続の中で「鏡の中は空っぽで僕は駄々っ子」という比喩的な表現も出てきたりネトフリ見たりするのに、その末に「やりたい」がゴールになっているのはもはや粋というべきか。綺麗な言葉を丁寧に積み上げて最後に一気に崩すという形式は性的関係に至るまでの道程として王道であるが、それを極度に戯画化してギャグに逃げ切ることもせず現実味を帯びさせたまま歌詞の形にしてそれでいてイヤミがないのは非常に新鮮である。

また、ワクワク水族館 (feat. まどんなZ)でもおもったがサビ部分のフレーズはフックとしては弱めにつくられている。先ほど引用した「もぐチャンに奢っちゃうティラミス」などと比べれば、「夢の中だけじゃ味がしない」とか「お魚のためだ仕方ない」とかは高飛車とイッツアスモールワールドぐらい威力が異なるものである。これが意図的に作られた落差だとすればさらに考察の余地は深まるものの、単純に発見が嬉しいだけで良いからここでは敢えて触れない。

ここまで書いた内容よりもより本質的な話があってそれは詩を書ける脳とも通じるところにはなるが、音楽というのは時空間を経験することであり、同じ音楽を知っているということは同じ時空間を仲間と共有しているということである。その意味でも既存のトラックを加工して別の音楽にするヒップホップというジャンルは特異的だ(vaporwaveとかなんちゃらfunkとかも同じ特徴を持っているけど)。後に完成した楽曲とサンプリング元の楽曲がそれぞれ異なる時空間を持ちつつも共通している部分もあるし、元ネタを知っている人同士で時空間の共有が発生することもありうるから、キングニートの曲も数多の人間のいくつもの経験を含蓄しているはずである。その上でギャグと芸術性のバランスを絶妙に保っているという状況そのものがまたメタ的なギャグのようにも思えてくるものだ。これはカニコーセンやかえる目といった至高のフォークにも通じており、もしキングニートの音楽性がこの路線のまま醸成されてくれば必ず何らかの大花を咲かせるであろうことが予想される。

 

まだ出回っている曲数が少ないため今後のリリースに注目しているが、この人たちが書いた詩をもっと読みたいし詞と曲の妙を味わっていたいのでキングニートさんCD出してくださいオラ!朝青龍カンクロウと松岡修造の歌みたいなアカデミック笑いを消費することでしか生み出せないATP(アデノシン三リン酸)がある。メンタルマンボウでもバカワクワクすっぞ!!!!

パウディーパウディーの夢

花粉はスギの精子であるから、私たちは日々鼻腔や眼球に射精されていることになる。精子が体内に蓄積された結果アレルギーという受精卵が宿り、花粉症という種子(あかちゃん)となって私たちの体に一生残り続ける。私たちはスギの竿姉妹なのだ。スギは私たちを無責任に孕ませ、子には責任を持たず養育費(治療費)も支払ってくれないのだから無慈悲だ。蚊の次くらいに人を舐めくさっている生物である。

 

赤瀬川原平もアンディウォーホルも(※どっちもすごいとは思うけどなんか好きじゃない)、既存のモノに対して自分らが見方を変えることによって価値を創造している。この発想は、人間がモノに手を加えたり逆に減らしたりといった加工をすることによってモノとは別の存在としての”美”という観念を生み出すという近代的な美術とは異なり、モノを変えずして人間そのものが変化することによってモノそのものを美とするというところにその新鮮さがある。

この発想の絶妙なところが、鑑賞者に視点の転換を要求する点においてリテラシーが求められる一方で、同時に誰しもに理解される普遍性を有している部分だ。トマソン階段やサイケなマリリンの笑顔に、(実際はそれらは複製されたものの一部であるはずなのに)どことなくアウラを感じるのはそれらが普遍的な美しさを持つためだ。

その美しさの源は、”人の手を加えていないモノそれ自体を美しいものとして見つめる”という行為を抽象化すると明らかになっていく。そう、それは自然の風景を眺めているときの感覚に近いものなのである。宇宙法則の精密さと不可侵性に対する畏怖と驚きが自然美の正体であるならば、上述した現代美術の原点は、人間の持つ共通感覚の再発見とそうした感性への戦慄にも近しいような驚嘆にある。つまり、人間というものを自然物として捉えた上で、感性という自然の賜物に対する感動をモノ(自然物)を通して得ているのである。よって、現代美術は自然を二重にしているだけで、その実は夕映えや大空や森林を見て美しいと感じているのと同じようなものなのだ。

 

スギの木も現代美術的な感覚だったかはわからないが、環境保全と材木の確保を名目として全国各地に積極的に植林された。

そう考えると!!!!!!!!!!!!!!!!!!!私たちは現代アートに強姦されているのだから、腹立たしさしか感じないだろう。種の存続のためだからといって粉を撒き散らすな。自分という名の空間に耐えられなくなるからと言って射精ばかりすな。材木さんって名前の人が絶倫よばわりされていじめられる前に私はスギの繁茂をとめたい。そのためにはまず杉下右京を檜下右京に改名、上杉謙信は上檜謙信として教科書改訂(銅像もつくりなおし)、スギ薬局(は?????????薬局だろ?ふざけているのか?)もヒノキ薬局にしなさい。ヒノキは防虫効果もありいい匂いがする。もちろんヒノキにもpowderはあるけど、そんなものはカレーを食っていれば克服できるので大丈夫。カレーを信じろ。インドを信じろ。日本をインドにしなさい。

うんこしながら5分で思いついた思想「テキトー推進派」

2年の間に文字を書くということの価値を忘れようとしていたが、人間はあまり急には変われないので惰性で更新をしている。

 

惰性で絵を描くこともまったく描かないよりはマシ、惰性でバスケするのもミッチー(誰)よりはマシ、惰性でやってはいけないのは動物の世話くらいなものだ。つまり全力でやるかまったくやらないかの二択しか用意されていないもの以外は惰性でやったって別にいい。

そんな極端なものは世の中に滅多に存在していない。大抵、テキトーでも許容される。むしろ、テキトーに生きていることを咎めるのは不当な排除であるとさえ見られる風潮が強まっている、「コンプラ」というのはそのようなものだ。テキトーは悪いことではないし、むしろそうした曖昧さや不可解さの中にこそものごとの本質が宿っているのだから、それを重んじることは何も不自然なことではないのだ。

 

そもそも、テキトー(適当)という言葉は「妥当」の類義語である。ならば、テキトーであることは正当であり、ものごとの本質的な姿であるはずだ。

 

それなのに、テキトーだと成り立たないと信じられているものはたくさんある。テキトーさの許容が押し進められていく一方で、テキトーさを律する態度を成功への道として信奉する立場もまた存在している。テキトー廃絶主義者たちは、世の中を正しく見ることができていないと言える。なぜならテキトーが本来の姿であるので、そこから乖離した態度をとればとるほど事の発端から遠ざかっていくからだ。発端には本質が宿っている。「なぜ」の末端は全ての始まりに収斂する。

 

今こそテキトーさの重要性を見つめ直し、人類を本質的な存在として解放するべきだ。

 

暖かくなってきました。

寿司がおいしくて泣きそうだよ

寿司を食った。それは信じられないくらいおいしい寿司。しかし、寿司の美味さが世界の他の誰にも理解されていなかったとしたら、こんなにおいしいと思わなかっただろう。

 

私たちはいつでもおっかなびっくり、人の目しか気にしないで生活していて、拒絶・隔絶・放棄されることを唯一恐れているものだ。個々人が互いに異質さを持つ”他者”であり、そのことを肯定せざるを得ない瞬間ばかりが人生にあるからそういう感情を持つようにできている。しかし、人間全体を貫く普遍性があることも事実である。異質な人間同士が感覚的に接続される瞬間がたしかにある(夕映えはきれいだとみんな思っているし、その感覚をひろく共有できていると信じきれている感覚のように)。普遍性を具現化したものの一部が思想や芸術に発展している。それらに携わる人たちは独自性を持ちながらいつでも普遍的であろうとしている。普遍的だからそれらのものは長く支持され続けている。

つまるところ、寿司をおいしいと感じるこの感覚は人間の精神の根深いところから起こる文化的なものであることに間違いない。「おいしい」という感覚は「あなた」を志向して外部に向けて発信される。「おいしい」と感じた瞬間に、周囲の”他者”と寿司の普遍性をもって接続される。だから「おいしい」は感覚として充実しているのだ。これがもし「うんこ踏んだ最悪」という気持ちでも同じ事が起こる。不幸なことがあったとき少しだけ喜びを感じるのは、その気持ちの当たり前さ加減に安心しているからだ。

 

たしかに接続されていると感じられる”他者”が身近にいることが人間にとって最大の幸福であろう(これは、モノやどうぶつでもおk)。寿司を食って美味くて泣ける人生に一片の悔いも残らないはずだ。あ!!!!!!!!!でもあれは許せない。100円少なく釣り銭渡されたこと。俺は数えていたぞ。ひゃくえんを馬鹿にするな。そのひゃくえんのために普遍寿司の感動は台無しだ。お前とは分かち合うことができなかった。俺は悲しいんだ。お前と共感できなくて、そのことがただひたすらに切ない。失われた俺たちの精神的交流。壊れた時計。ヤニのないタバコ。部品が廃盤になった万年筆。枯れた花。これがうちらの未来だ。あなたと4時間スタバでおしゃべりしてそのことを一生輝いた思い出として持って行きたかった。これが本当の気持ち。でも、私の心を温めるcoffee代にはあと100円、足らなかった。それだけのことだ。それっぽっちの喪失感。止まらない、涙が、ワサビで……………

統計によるときみの鳥はうたえる

抹茶を使用した商品が出るたびに名義だけ貸している京都府宇治の気持ちになってみよう。これは、親戚にサッカー名人がいるというだけでサッカー玄人ぶる小学5年生を見守るような微笑ましい気持ちなのか、それとも型破りな若頭が好き放題するのを方々で尻拭いして回る組長の気持ちなのか、想像し難いものだ。なぜお茶は静岡で抹茶は京都府宇治なのか?という日本人はスルーしても外国人は見逃さないクエスチョンの存在に、京都府宇治はいちはやく気がついたはずだ。日本中の誰よりも。

世界中に自分を嫌いな人間が1割いて2割は好きで残りの7割はどっちでもないという話はウソすぎると思う。1割もの人間から嫌われてたまるか。0.2%という数字が何だか知っているか?これは、日本人の20代の中で年収が1000万以上ある人間の割合だ。多すぎないか?20代はざっくり1400万人くらいいて、その中の0.2%といえば2.8万人だ。多すぎるでしょ。日本人で20代で0.2%というこんなに限られた話の中でも3万人いるのに、世界の1割はいったい何千万人になるのか?考えただけで頭痛のする話だ。私たちはみんな何千万というアンチを生まれながらにして抱えている。そんな話があるか。ちなみに宇治の人口は18.5万人。宇治に20代の超高所得者の6倍の人数が居住していて、彼らのうち約2万人程度は私のことを嫌っていて、さらにそのほとんどが外国人が見逃さないクエスチョンに対する解を各々持っている。頭がおかしいとしか言いようのない話だ。

しかし、私たちは交わることがない。脳がそれを受け付けないからだ。人間をやめて無限に生きれば約3万人の高所得者全員と話すことができるが、それをするメリットがない。なぜなら人間をやめること自体に既にメリットがないからだ。物事を損得で考えるのをやめてみるとあっという間に統計まみれのカオス空間に放り投げ出されてしまうという危うさに、人生のスリルを感じたっていいんじゃないか。いや、むしろ損得を考えているからこそ統計に頭を支配されてしまうということもある。俺、自分の気持ちわからないや。ごめんね。きみのことは嫌いじゃないんだけど、なんか今のままの関係続けてたらきみの時間が勿体ないって思って。俺なんかよりいいやついっぱいいるから。じゃあ、俺んち踏切の向こう側だから。

🚋💨ガタゴトガタゴト

                              ☀️

 

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