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wordpressの日記( https://yajiriinu.wordpress.com/ )の移植版

日暮里ザクリーピー

急いでいるときに限って奇っ怪な出来事に遭遇する。日記に嘘しか書かない私にも、とうとうあまりにも異常すぎるが故にありのまま描写しても嘘にしか見えないような真実を述べるときが来たようだ。

 

日暮里に、ゲーミングゴキブリとしかいいようのないものがあった。それが生き物なのか無機物なのか全くわからないが、とにかくゴキブリみたいな黒いもやもやしたものがゴキブリみたいなスピードで床を駆け抜けており、それは夜に散歩してる犬に括り付けられた首輪のように七色の光線を放っていた。

夜の散歩で映えた“ピカピカ首輪”をつけた犬 その表情に癒やしが止まらない – ライフスタイルメディア『grape』

明らかに犬の首輪みたいなLEDの光だったが、LEDが黒い物体にくくりつけられているようには見えず、まるで黒い物体の内臓がLEDであるかのようだった。内臓がLEDであるにも関わらずそれが虫であるように見えたのは、もやもやしたシルエットが虫の脚に見えたからだ。脚は明らかに6本以上はあり、高速でそれらが動き、なおさらその輪郭を曖昧な形にしていた。

その動きはまるで硬貨がなめらかに転がっているような弧を描いた走行であった。しかしただのゲーミング硬貨であればありえないことに、人を避けるように方向転換しながら、あの日暮里の汚れた白い床の上を、自販機の下まで移動していったのである。

 

日暮里から新宿方面の電車に乗り換えると、私よりもかなり小柄な中年男が右手方面から歩いてきた。その男は1人で歩いており、20年前のしまむらでしか売っていなかったようななんともいえない色のなんともいえない形状の半袖シャツを着用していたが、暑い季節の割に汗ジミもなく、清潔な雰囲気をまとっていた。

その男に「あの、突然声をかけてしまってすみません。ちょっといいですか」とかなり長めの前口上を聞かされた。長すぎて、この間に5回くらいは頷いたと思う。そして遠慮がちに「菓子パンやコッペパンみたいな、お惣菜のパンは好きですか?」と尋ねた。

これを聞いた私の脳内には5通りくらいの対処法が思い浮かび、5つを吟味するために3秒ほど要した。もし「はい」と言えばパンをもらえるか男が経営しているパン屋のチラシをもらえるか、あるいは唐突に刺される可能性もあった。パンをもらった場合、そのパンに毒が入っているまたは消費期限切れで安全に食せる状態でないケース、あるいは大量すぎて持っていくのに困るケースが考えられるためリスクが大きい。おっさんのパン屋を紹介される場合、前口上でさえ5頷きタイム(nodding per second)を要するほど要領を得ないおっさんのセールストークが終わるまでいつまでたっても新宿行き電車に乗れないと予想される。気を許すと刺されるか、おっさんの背後に控えている犯罪組織に拉致される危険性もある。「いいえ」と答えた場合はなおさら刺される危険性が跳ね上がる。無視するのも「いいえ」と同様リスクがある。

そこで私が選んだ応答は「えと……………ナゼ…………?????」である。理由を聞いて相手に説明の機会を与えればその話の内容や態度からおっさんがイカれてるかそうでないかの判別もつくし、これからなにをするつもりなのか理解できてさえいれば唐突なパンアンケートにも答えられるというものだ。非常に合理的な判断である。

それだというのに!!!!!!おっさんは「じゃあいいです」とだけ言い残し、足早に去っていった。私は伏線を張るだけ張っておいて回収しない、風呂敷を広げるだけ広げておいて畳まない映画が大嫌いなので(結論を描かない系もマジで嫌い)、このおっさんに対しても不信感より怒りのほうを強く抱いた。しかし急いで新宿に向かう必要がある私には、電車をパスしてまでその後のおっさんの動向を観察する余裕がなかった。少なくとも、おっさんは私以外の通行人は無視して去っていったと思われた。

 

ゲーミングゴキブリ、パン屋のおっさんは私に謎だけを残し、その謎はこの日の一時的な忙しさの中に溶けてなくなっていった。忙しくさえなかったらこれらの怪奇現象を徹底解明するまで私は日暮里にとどまり続けるつもりだったのに、忙しさは好奇心を殺してしまう。きっと何にも興味がなく無趣味だという人間は常に忙殺されているに違いない。そうでなければ無趣味な人間の存在は許されない。マジでショート動画見て寝てる暇あったら日暮里で降りて私と同じものを目撃するまで帰らないでほしい。全無趣味人の時間的リソースをそれに使ったら、おそらく2日もあれば両方解明されるというのに、まったく無駄が過ぎる。無趣味な人間どもが10年単位で使い古したブランケットを枕がわりにしてダラダラしてる間に、私は3万円以上するバカ高い枕に頭を預けながら奇っ怪な現象について考察しているのだ。本当にどうかしている。

自らを散歩に連れ出す

人間の脳は、これといったタスクが何もないときに最もよく思考するようにできている。夜寝る前に考え事をしたり、風呂に入ってるときに急に名案が思い付いたりするのはそのためだ。特に散歩はタスクゼロの状態の中でも最も思考の糧を供給するために適しているもので、流れゆく景色をなんとはなしに眺めつつ一定の目的意識に基づいて足を運ぶごとに、家にいるだけでは絶対に思いつかなかったような発想に至るというものだ。

私は別にそんなこととは全く関係無しに散歩がただ好きなので、どこにも用がないのに外に出る習慣を作っている。この日は割と強めの雨が降っていたが、これがよかった。雨は中途半端に降るからうっとおしく感じるものであり、より高いところから高速で真っ逆さまに落ちてくる巨大な雨粒に傘が打たれる音や足元に雫が跳ねる感覚は実際のところかなりチルだ。

結婚をしたが、正直こうして一人で散歩しているときのほうが孤独を感じない。私はいつもそうで、他人と関われば関わるほど自分との距離の遠さや相容れなさが心に沁みてくる感じがするし、理解することもされることもとても無理で、本当に心の繋がった人間など実在しないと強く思う。ただ一人、自らを雨の中に連れ出してさまざまな景色をぼんやり眺め、互いに一切顔を覚えることのない通行人や植わっている草花や虫を完全に風景と一体化したオブジェクトと捉え、諸々のまとまらない考えを頭の中に薄く引き伸ばして拡散させるための燃料みたいにそれらを消耗していくことこそが私にとって本質的な生き方だ。これをするために、労働や社会生活や、それらに一瞬だけ期待感を抱いては打ち砕かれていくような経験といった多少の無理をこなしてきたのだ。

つまるところ、結局他人というのは私にとって期待を抱かせるものであるくせに必ず落胆と孤立感を感じさせるような、肩透かしな存在だ。家にとどまっていれば絶対にこのような発想には至らなかっただろうが、家に一人でいるよりも外に出るほうが他人という存在に対する現実的な価値を知ることができるなんて、ちょっと逆説的だ。いや、そんなことは一切関係なく、明らかにこの考え方は外出先の図書館で読んだ萩原朔太郎全集第8巻の影響なのだが、とにかく!!!!!!私は全く孤独を愛していないし、他人も愛していない。それは朔太郎も同じことだろう…。自らをして流れる風景に身を包ま使むることは、私の中では少なからず意味を持っている。だから土日に稼働する前提で仕事のスケジュールを勝手に決めるな!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!これだから労働は…………。

トイペでパズル入門

おそらく大半の人間にとって、人生初の立体パズルはトイペをトイペホルダーにはめる課題だったであろう。
トイペホルダーには実に多様性があるが、どれもトイペの中心に穿たれている穴に何か通して支えることが目的となっており、目的が共通である以上、パターンが存在する。いま目の前にあるトイペホルダーがどのパターンを採用することでトイペの重量を支えているのか、つぶさに観察する過程の中に空間と立体を把握する能力が養われていくものである。

刮目すべきことは、トイペホルダーはトイペを支えるのみならず、トイペホールド力と使用済みトイペ芯の外しやすさをどちらも維持できる設計になっていることだ。昔は主流だった、あのWindowsXPのパチンコゲームのような三角形のペコペコするアームでトイペ芯の両端を支えるタイプのトイペホルダーは、トイペを使用するときにかかる引っ張り方向の力にはしっかり抵抗できるのに、芯を外すとき・新しいトイペをはめるときの上下方向の力には簡単に屈服する。

この設計の秀逸さを初めて発見するときこそが初めての他者の発見といえるだろう。つまり、世界には自分のほかにも意図をもっている人間が存在しており、古今東西どこに至ってもその人間たちが意図をもって設計したもので埋め尽くされていて、すべてのことには意味があるということの発見である。私たちはトイペにあまりにもたくさんのことを教わりすぎている。

パチンコアーム型トイペホルダーは、あまりにも偉大だった。あれ以上にトイペホルダーとして完璧な設計はない。それだというのに、昨今は長い棒の先にかえしをつけておいて、トイペ交換のときはかえしを避けるようにトイペ芯に棒を通すタイプが主流となってしまった。

いったいいつから、あの三角形のしくみは冗長だと気がついてしまったのだろう?いったい誰が、ただの金属製の棒にかえしをつけておくだけでホールドも取り外しも容易に可能となることに気がついてしまったのだろう?

消えたパチンコアームトイペホルダー。この謎を、悲愴を、どこに解決しにいけばよいのか。トイペホルダーは私たちの一生に初めてのパズルを提供し、そして一生解けないパズルを残して去っていった。

特製スペシャル鍋を腐らせた(ノンフィクション)

鍋を常温でまる二日放置した結果、当然腐った。鍋を常温でまる2日放置したことがない人のために記録を残しておこう。

その鍋は、材料費に2000円ほど費やして作られた特別エディションだった。私は日曜日に鍋をまとめてつくりそれを平日夜に少しずつ食べて5日持たせることで食費を節約しているが、これは消して積極的に好きで食ってるのではない。ただ安く栄養を摂るための義務汁だ。安く済ませようとすると毎回同じ食材になってしまい、キャベツ、しめじ、もやし、こんにゃくがスタメンで、1食食うたびに豆腐半丁を投入することでさらに嵩増しするという貧乏ぶりな上に味付けまでいつも醤油や味噌や塩であるので、本当に飽きる。飽きすぎて、帰途を辿りながらこれからその鍋を食わねばならないことを思うと嫌すぎて発狂しそうになるくらい、本当に飽き飽きで、辟易していた。自ら辟易ルーティンを生み出していたのだ。
でも、!!!今回作ったその鍋は、まずキムチ鍋である。いつも醤油か味噌か塩なのは鍋スープコーナにそのラインナップしかなかったからなのだが、最近やっとさらなる鍋スープが別の区画で売られていることに気づいたためやっとキムチ鍋を作ることができた。これだけでも十分辟易の牢獄を脱する鍵となりうるが、さらに具材として半玉150円という驚異の破格で売られていたかぼちゃと鶏ムネまる1枚という贅沢素材を取り入れた。鶏ムネは初めて切ってないものを買って、初めて自力で捌いた、思い入れのある一品である。かぼちゃもこれ以上安く買えた実績は今までないので、実質最安アワード受賞作ということになる。極めつけに、発狂するほど飽きる鍋をもう二度と作りたくなかったのでラーメンを2玉も入れてもはやチゲラーメンにしてやった…しかもよくある縮れ麺でなく、食べごたえのある平打麺を!!これは非常に素晴らしい。馬賊の坦々麺をも凌駕する力作がタッパー内に封じ込められ、本当に宝石箱のように赤くきらめいていた。

それだというのに、最後の最後にそのタッパーを冷蔵庫に押し込むのを忘れた。我が家には調理直後のアツアツのものを冷蔵庫にぶちこむと中のものがあったまって全部腐るという言い伝えがあったため、余熱をとってから入れようと敢えて放置したのだ。しかしその結果、ただの食料以上の意味を持つ渾身のマスターピースが全滅、すべて腐り落ちた…………………!!!!!!!!!!!!!!!!!!まず、帰ってきて玄関に入った瞬間から、このアパートの住人全員が一斉に私の家で屁をこきまくったかのような大根っぽいガス臭がした。人の部屋で屁をこきまくるなどという無礼を私は許さないので、ふざけるなと憤っていたら、タッパーが部屋の隅の暗がりに放置されているのを見つけた(私の家は普通のLED照明が備え付けされておらず間接照明しか明かりがないので、常に薄暗い)。近づくと野菜の饐えた臭いと納豆っぽい発酵臭が押し寄せて来、フタを開けたら糸を引く粘っこい白い謎の塊が鍋の表面に点在していた。私は多少酸っぱい匂いがして粘つくかもくらいのものはまあ食べるし食っても腹は平気であるが(ちなみにそういうものは酸っぱいだけでなく苦くて渋い)、それは傷んでいるどころか明確に腐っていた。白い粘液の塊は明らかに菌類の塊であり、タッパーはシャーレであり、私のスペシャルなキムチ鍋は臭い生ゴミだった…………………!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!こうしてただのメシ、ただの義務行為以上の意味を持つ、たくさんの栄養と思い出とはじめてが詰まったきらきらルビーの海(キムチ鍋)は腐海と化し、それらをゴミ袋に詰めて捨てに行ったときの水分を含んだ重量感は深く私に傷をつけた。

おい。こんなことが起きておいて、まだ野菜や肉を買って自前で飯をこさえてやろうと考えている自分が本当に貧乏臭く、みすぼらしく、雑魚と感じるよ。雑魚が生ゴミこさえたよ。雑魚が生ゴミこさえたよ♫ふざけるな。そして二度と私の前で屁をこくな。その匂いは私に腐海の記憶を否応なく思い出させ、鍋のために発狂する人生が永遠に続いていくことを意味するためだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

(結婚した記念)女とサシで飯行った思い出全部振り返る

私が女とサシで飯行ったことは2回しかない。2回くらいなら全部振り返られると思うので、それをしようと思う。

1回目は成人したばかりの頃(※当時の成人の定義は20歳以上)、まともな成人の感覚として至極当たり前のように誕生日にドンキで茶色いタバコ(ラッキーストライクみたいな名前だった)を300円しないくらいの値段で購入しそれを週に1本ずつくらい嗜んでいた時分に、インターネットに私と同じように無目的な文章を放出することに何割かのリソースを費やしている女とのことだった。女は適当にキーボードに手をおいてたまたま当たったみたいな支離滅裂な名前で投稿を続けており、名前が支離滅裂であることからただ自らの個人的充足感のためだけに活動している感じがシンパシーを呼び、別にどちらから誘うということもなく飯に行く運びとなった。

飯に行く道中で井の頭公園のスワンボートに乗り、私より7歳くらい年上だったその女は5年以上付き合ってて同棲していたのに浮気され婚約破棄となったことを語った。これは当時の感覚からしても発言小町系の掲示板やVLOG系のyoutubeで何度となくコピペのように無数の女たちが語る内容であったため、やや食傷気味になりつつもその女が婚約破棄を自分の内側に抱えそれに伴う痛みをもって存在しているということに対してはおのずと畏怖の念を持った。この手の話を聞くたび、どうして10代の少女でもないのに相手が自分に誠実であるかどうかくらい見分けられないのだろうという疑念と、何も落ち度がないのに裏切られたという事実に対する哀れみが両方同時に押し寄せるので、当時もその両方の印象を女に対して抱いていた。

で、夕飯をもうどこだったかも覚えていない地下鉄の駅近くの店のテラス席で食った。酒を飲む気分にもならず、水だけで済ませたと思う。私は学生で所得がないという理由で、すべて彼女の奢りということになった。店が現金払いしか受け付けていないことにすべて食ってから気づいたものの、女は手持ちの現金がないため近くのコンビニでおろしてくると言って離席した。当時の私は完全キャッシュレス派であり現金を持つという発想もなかったため、女を待つことしかやることがない。喫煙者ならわかるだろうが、食後外気に当たっているとタバコを吸う気分になり、1本吸って待っていた。女は戻ってきて私のその有様を見るなり態度を急変させ、信じられない嫌味(あまりに態度の変わりようがが急速冷凍だったのと文脈もめちゃくちゃすぎてもはや何を言ったのか聞き取れなかったので、嫌味でもなかったのかもしれない)を捨て台詞として足早にひとり地下鉄の階段を下って帰っていった。

私は何が原因で彼女がそんなに怒ったのか、というかあれが怒りの表現だったのかどうかすらもまるでわからなかったため平気でメッセージを飛ばしたが返事が来なかった。このことがとても不思議な印象を私にもたらし、いい感じに創作の材料にできそうだったので今回の体験を基にした作文をあらゆるプラットフォームに投稿した。
驚いたことに彼女はそれを発見し、当時のあれは待ちながら喫煙していたことに対する怒りであるという説明をしてくれた。ちなみに私は現在大の嫌煙家と結婚しており相手との交際開始以来もう長いこと禁煙が続いている状態で、ヤニとは縁が切れている上に嫌煙家(非喫煙者)の意見もある程度は把握できている状態である。しかしながら、彼女の目の前で喫煙したわけではないので臭いや煙をまき散らしたということでもなく、店のルールとしてもテラス席なら喫煙OKで灰皿もあったのでマナ悪ということでもなく、私は喫煙者だったころでも吸う気分になったときしか吸っておらず(その日もその1本しか吸ってない)、ヤニカス・ヘビースモーカー・ニコチン依存といったダーティなレッテルを貼られるいわれもないのに、怒りのあまり理由も説明せず一人で帰られるほどのことをしたか????と今も思っている。当時もそれと同じことを思ったので、私も彼女のように何か信じられない嫌味を捨て台詞として返信して終わった。

2回目は結婚してからのことで、転職して入った会社の新入社員(中途)の女が相手だった。この女はかなり自分の好き勝手に人生をサーフィンしており、入社して数週間で年齢の近いすべての社員とサシ飲みをコンプリートしていた(何の目的があったのかは誰にもわからないし、たぶん彼女が行動するのに目的などないのだと思う)のだが、私にもお鉢が回ってきたというわけだ。

店決めは彼女に任せ、予約の電話だけ私が担当することで何かした感を演出し、当日を迎えた。ロケーションは安くて席でタバコをふかせる店ばかりが商店街の合間に立ち並んでいるようなドヤ町+下町のような感じで、その中でもまあまあ清潔で値段も破格というほどではないくらいの、まさに初めての相手と行くのにちょうどいい、焼き鳥屋だった。

仕事終わりだったので別に店に行く前に何かするということもなく、鳥が焼かれるのを待つ間特にこれといった話題もなく酒を飲みながら過ごしていた。というか、彼女と話したことを何一つ覚えていない。1回目の女とは真逆で、印象に残らないただの雑談しかしなかったがなんとなくずっと愉快な気持ちがしていたことだけは確かだった。あとはとりあえず、焼かれた鳥の味のすばらしさを互いに称えあっていたと思う。

彼女はいつのまにかチューハイ2杯でつぶれており、ふらふらになって帰った。そのふらふらになるというのも、本当に何かにつかまりながら左右に蛇行する形式での歩行でありわざとらしくさえ思えるものだったが、彼女は全社員サシ飲みコンプという何の意味もない活動をただ楽しむためだけに実行するような純粋なバイタリティの持ち主であるため、その蛇行が何かの演技や打算であるとは到底考えられなかった。何も覚えていないが、彼女も私も本心の一部を切り取って正直な意見を交換しあうことができていたのだろう。ちなみに今回の店も当然席でヤニを食える場であったが、そのころには私は既婚で禁煙していたし、彼女はタバコの臭いが本当に無理と最初から言ってくれていたので、特にヤニ絡みの騒動は起こらなかった。

全くの偶然ではあるが、こうして書き記してみると同じ女とのサシ飯体験でも、すべての要素が完全に対照的になっていることがわかる。ひとくちに女といってもさまざまだし、ひとくちに嫌煙家といってもさまざまであり、私の状態もそのときどきによって異なっている。これらの要素がランダムに組み合わさることによって人間関係が偶発的に構築されているのだとしたら、他人なんて本当に流動的でほとんど架空の存在のようなものだ。絶対にこの結果になるという確証がない状態で他者と接することは1人目の女との体験のように一種のストレスを生むし、同時にその混沌に完全に身を委ねられさえすれば2人目の女との出来事のようにわけのわからない愉快さを獲得するチャンスを秘めている。

おい!!!全員こんなことわかったふりをして他人と関わっているのか………?????そうだとしたら、私には気が狂っているようにしか思われない。だって、他者(浮気している可能性が極めて高い異性も含む)というカオスに我が身を投じるような真似ができるのに、なぜ誰も私の書いたものを読むという極めて安全かつギャンブル性の低い行為をやらないのだろう?そっちのほうがよほど有意義で、確実で、人道的であるはずなのに。なぜだ?読め。確かに私は何年もこの怪文書投稿プラットフォームを放置したし、結婚もしたが、それと文を読まないことには何の因果関係もあるまい。今すぐ読みなさい!!!!!!!!!

俺を愛せ愛せと歌うほうのラブソング、書きました

私は博愛主義者であるので、基本的に全人類、地球上・宇宙のすべてのことを愛している。世界は心底美しいと思うし、嫌われているような人のことも好きになってしまうことができる。昔、漫画広告でよく出ていた「私ってサバサバしてるから」とか「私以外みんなバカ」とかの主人公もなんだかいとおしく見えてしまうというか、そういう人に同情的な目線に立って見る景色はとても新鮮で、おもしれー女だなと思うほうなのだ。公衆の面前でツレの女のケツを撫でている若めの男ども(若いくせにこうなのがムリ)以外は好きでいることができる。

ストライクゾーンが広いためか、嫌われているものに目を向けてみると世界の不条理に気が付くことができる。たとえば、みんなパイナップルのことを嫌いすぎていないか?捌くのがめんどうなわりに可食部の少ないこの果実は、酢豚パイナップル、pinapple on the pizzaのみならず、パイナップル頭などという容姿を揶揄する言葉にまで使用されており、人を皮肉るにはうってつけの語彙となってしまっている。人間はいったいどこまでこの果実のことをナメるつもりなのか。

たしかにパイナップルというのは既に保たれている調和に突如として出現する鮮烈さを持つたべものであり、果実界の青天の霹靂とも言えるものである。しかも最初のインパクトが強いだけで、酢豚やピザに入っていたところで特段おいしいといえるものでもないのかもしれない。でもそんな唐突さや一瞬の鮮烈さに私は非常に魅力を感じる。私も特別な日じゃないとなにもしてあげられないのかと思われるのが嫌だから、なんでもない日に前触れもなく手紙を書いてきて渡したり、急に謎解きゲームを作って解けた人に景品をあげたり、人と遊んでいるときに目的地を勝手に変更して自分だけ勝手に消え去ったりしているのだから、実質パイナップル人間である。それらの行為は別に嫌がられないかわりに歓迎もされなかった。しかしながら当の本人はそうやって他人を振り回すのを非常に楽しんでいるのだから、実はナメられているのはパイナップルではなくそれに辟易とする人間のほうなのである。全てが急、全てが極端、全てが即興的であっていいはずがないが、私はそれが好きだから他人にもそれを好きになってほしい。私を翻弄してくれ。私がこうなったのはお前のせいだからお前もパイナップルになるんだよ。はやく根を伸ばしなさい。根の産毛が私の心に触れるようになるまで。地中深くでは、なんもかんも忘れて、ミミズが泣いている………………。

鏡の中のアクトレス事件の登場人物全員反省させる回

10代の頃運営していたイタいX(旧Twitter)のアカウントが消えてくれていた。イーロンマスクありがとう。そのアカウントは、イラブのハッカーに乗っ取られパスワードも変えられてスパムアカウントに成り下がっていたものの、わずか3日でハッカーによるやたら長いURLのついたふしだらな投稿も途絶えもう誰にも見向きされない凄惨な姿だけデジタルデータに残していた、ネット上のダークツアリズムスポットになっていたものである。アイコンは四角くてふぁぼが星マークだったし引用リツイートの機能がなかったから手作業でコピペしていたあの頃。おそらく当時リプを飛ばしあっていたフォロワーどももおっさんやおばさんになっているだろうし、その大半は私と同じように負の遺産になっているはずだ。

 

なぜ人は自分の過去の愚かさを定期的に思い返してしまうのか?イタXアカウントはもう変えようもない過去の話だし、さすがに10代のころと今とでは思考が異なるから反省して今後に活かそうとしたとて現実的には無意味だし、思い出しても不快になるだけだ。それでもやっぱり蘇る自罰的な衝動の正体は何か?そのヒントは「鏡の中のアクトレス事件」に隠されている。

(次の動画にはアグレッシブな口論の様子が記録されているため、人が感情的に声を荒らげる様子を見るのがつらい人は再生しないことをおすすめします)

あまりにも有名なこの動画は、家庭環境に恵まれている者とそうでない者を判別するためのリトマス紙として広く認知されている。

常に威圧的で母娘より優位に立っていないと気がすまない父、能力が低い上にそんな父に辟易とするあまり素直に謝ることも適切に感情を表現することもできない母、ただ気の毒な娘。さまざまな世論があるが、こういうとき夫婦を客観的に見てどちらが支持するに足る人物か正確にジャッジできるのは子ども(娘)である。娘はどちらかというと母側の味方になっているような態度が見られるため、どちらかというと母のほうに正しさがあるといえよう。もちろん同性同士の精神的つながりから日頃母と一緒になって父の悪口を言っていたような背景があるとすれば、父に対して不公平な判断にはなってしまう。しかし娘は父母双方に対して「もうやめて」とか「どうでもいい」とか自分の考えを言えているし、その際は母に過度に肩入れするようなこともなかったので、それなりの精度で善悪を判断し表現することができると考えられる。よって娘の態度を見ると、父のほうが理不尽なキレ方を日常的にしていて、何度もそのような態度をとられ続けた結果として母も大声(ヒス)で黙ってもらうことでとりあえず自分の心を守らないと限界を超えてしまうようなラインにきていたため、もともと上手に気持ちを人に伝えることが能力的に苦手だったことも相まってやむを得ずパルキア化してしまったのではないかと考えられる。同じ人間と何十年も一緒に居れば当然起こりうる事件である。「ごめんなさい自分が間違ってた」を互いに自然に何も気負わず言えるような時期はとうの昔に去り、最低限あるべき思いやりの維持・回復が何らかの理由でできなかった(またはしなかった)ツケが回ってきたのであろう。

こういうとき、こういう相手にこそ、過去の愚かさを自ら省みる態度が求められているのではないか。過去は変えられないし過去の自分と今の自分は違うからカンケーないと思ったとしても、夫婦のように他人との長い付き合いを良好に保つためには、持って生まれた性格や生育環境の影響を受けて後天的に獲得した偏見を確証バイアスを打破してでも反省し直さなくてはならないからだ。人に備わっている内省の機能は、健全な人間関係の構築ならびに生存確率の底上げや適切な環境下で子孫を残すことのために必要なのである。つまり生物にとって内省は非常に重要な役割を持つ心理なのだ。だから犬も悪いことしたら反省するし、叱られた記憶はずっと持っている。人間の鬱っぽさは犬の能力と同じことだ。

 

そのため、反省ができない生物はいずれ淘汰される。あ!!!!!!自分の中で反省しただけでそれを迷惑かけた本人に謝罪など適切な形で伝えることもせずアッサリと音信不通にしてサッサと次の人間関係に活かそうなどという人を踏み台にするようなナメた行動は反省とは言わないぞ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!私はそれをされた相手を一生覚えている。やり直すチャンスを何度も与えたのにもかかわらず無下にするような愚か者は大人しく淘汰されるがよい。モーゼが偶像になるとしたらそれは私か、犬の姿をしているはずだから。絶対に許さない。