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wordpressの日記( https://yajiriinu.wordpress.com/ )の移植版

パウディーパウディーの夢

花粉はスギの精子であるから、私たちは日々鼻腔や眼球に射精されていることになる。精子が体内に蓄積された結果アレルギーという受精卵が宿り、花粉症という種子(あかちゃん)となって私たちの体に一生残り続ける。私たちはスギの竿姉妹なのだ。スギは私たちを無責任に孕ませ、子には責任を持たず養育費(治療費)も支払ってくれないのだから無慈悲だ。蚊の次くらいに人を舐めくさっている生物である。

 

赤瀬川原平もアンディウォーホルも(※どっちもすごいとは思うけどなんか好きじゃない)、既存のモノに対して自分らが見方を変えることによって価値を創造している。この発想は、人間がモノに手を加えたり逆に減らしたりといった加工をすることによってモノとは別の存在としての”美”という観念を生み出すという近代的な美術とは異なり、モノを変えずして人間そのものが変化することによってモノそのものを美とするというところにその新鮮さがある。

この発想の絶妙なところが、鑑賞者に視点の転換を要求する点においてリテラシーが求められる一方で、同時に誰しもに理解される普遍性を有している部分だ。トマソン階段やサイケなマリリンの笑顔に、(実際はそれらは複製されたものの一部であるはずなのに)どことなくアウラを感じるのはそれらが普遍的な美しさを持つためだ。

その美しさの源は、”人の手を加えていないモノそれ自体を美しいものとして見つめる”という行為を抽象化すると明らかになっていく。そう、それは自然の風景を眺めているときの感覚に近いものなのである。宇宙法則の精密さと不可侵性に対する畏怖と驚きが自然美の正体であるならば、上述した現代美術の原点は、人間の持つ共通感覚の再発見とそうした感性への戦慄にも近しいような驚嘆にある。つまり、人間というものを自然物として捉えた上で、感性という自然の賜物に対する感動をモノ(自然物)を通して得ているのである。よって、現代美術は自然を二重にしているだけで、その実は夕映えや大空や森林を見て美しいと感じているのと同じようなものなのだ。

 

スギの木も現代美術的な感覚だったかはわからないが、環境保全と材木の確保を名目として全国各地に積極的に植林された。

そう考えると!!!!!!!!!!!!!!!!!!!私たちは現代アートに強姦されているのだから、腹立たしさしか感じないだろう。種の存続のためだからといって粉を撒き散らすな。自分という名の空間に耐えられなくなるからと言って射精ばかりすな。材木さんって名前の人が絶倫よばわりされていじめられる前に私はスギの繁茂をとめたい。そのためにはまず杉下右京を檜下右京に改名、上杉謙信は上檜謙信として教科書改訂(銅像もつくりなおし)、スギ薬局(は?????????薬局だろ?ふざけているのか?)もヒノキ薬局にしなさい。ヒノキは防虫効果もありいい匂いがする。もちろんヒノキにもpowderはあるけど、そんなものはカレーを食っていれば克服できるので大丈夫。カレーを信じろ。インドを信じろ。日本をインドにしなさい。