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wordpressの日記( https://yajiriinu.wordpress.com/ )の移植版

エッチなひとンち

アニメ「あたしンち」359話「誰もいない日」では、保護者と同居する子どものフラストレーションがリアルに描かれている。母、父、姉と暮らす末っ子ユズヒコは、テレビや夕飯のおかずの取り合いや部屋を覗かれるなどの干渉に不自由さを感じていたが、自分以外の家族全員が家をあけることになった際、これまでの鬱憤を晴らすように過剰なまでに「自由」であろうとする。

そのあまり、彼がひそかに応援しているマイナーなアイドル・まるみちゃんの写真にキスしようとするという、普段あまりやろうとも思わないような行動に出る。この場面は見てるこちらも恥ずかしくなってこないか?彼が架空の人物であるとはいえ、絶対に他人に見られてはいけないシーンを見てしまっていることに対する羞恥。実はこの羞恥心は、アニメや漫画の読み手として架空のキャラクターの恥ずかしい部分をのぞき見するとき以外でもはたらく。

 

たとえば、なぜアイドルが恋愛禁止になっているか考えてみよう。これは何も、ファンにガチ恋させお金を引き出しやすくするためのマーケティングとしてやっているだけではない。というより、それは結果として生まれた効果である。恋愛禁止にすること自体の目的は、アイドルに女性のモデル(見本)としての立場を確立させるためだ。つまり、アイドルの生活感を完全に排除することによって、浮世離れした女性的な美を持つ特別な存在(女神)に見えるようにしているのだ。ゴミも出ないし掃除道具もおいていないモデルルームに生活感がないのと同じで、人間なら当然ある”好きなだけ好きなもの食べて、好きな時間に寝て、性欲があれば異性と関わりも持つ”という基本的欲求の全てを抑えこんだ生活をすることでアイドルはvenusになった(盛んに”ファンのために”頑張ってますアピールをするアイドルが多いことからもわかるように、食欲と睡眠欲だって明文化されてないだけで抑圧されることが望まれている)。生活に生活感がないということは、他人に見られて恥ずかしいような個人の中に秘匿されるべき場面を一切無くし、全てを公衆のもとに晒しながら生きるということだ。

なぜ殊更にアイドルばかりをモデルレディに仕立て上げて恥ずかしい部分をなくそうとしているのかというと、恥ずかしい部分を見てしまったファンが性的に興奮してしまうのを防ぐためである。これは冗談ではない。初めて気になる異性の部屋に行ってドキドキした経験があると思うが、そのドキドキの正体は「ここがあの人の”絶対に他人に見られたくない恥ずかしいシーン”の現場なんだ」という性的興奮だ。家族と同居している彼女のリビングルームとか父の寝室とかではなく、”彼女の部屋”に対してだけ感じる興奮。それは、単に彼女のベッドが置いてあるからというだけで起こるものでは決してなかったはずだ。彼女の部屋に入るとき、私たちは彼女が他人に一切見られていないときの無防備さを想像してしまい、そんな(精神的に)あられもない姿が晒されていた空間を共有してもらえただけで、性行為に同意されたかのような気分になってしまうというわけだ。人前で女性性を売り物にしているアイドルは一般女性よりも異性に性的対象として見られる場面が多くなってしまうため、不意にそういった無防備さ(生活感)を見せてしまったときに「この子は性行為に同意している!」とファンに思われてしまう危険を少しでも減らさなくてはいけないのだ。したがって、彼女らは自らをvenusたらしめるためにモデルレディにならなくてはいけなかったのだ。

 

アイドルばかりではない。魅力的な異性に対して、性的欲求を覚えるにも関わらず抱いてしまう「この人の湿った性器はあまり見たいとは思わない(見せてくれるなら喜んで見ますけど……)」という気持ち。これはユズヒコに対する羞恥心と同じ類のものだったのだ。しかしながら、おなら程度だったら人前でしても構わないんだよ?スカした態度はやめて、堂々とおならをしてごらんよ。試しに異性の前で、性器を見せる前におならをしてみるといいんじゃないか。おそらく、おならをされたときの反応と性器を見せられたときの反応って同じなんで。性器の予行演習におならどうっすか?