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wordpressの日記( https://yajiriinu.wordpress.com/ )の移植版

格言

格言はふつうのことを言ってるだけのものだ。説教臭かったり説明的であったりする口調はしょっちゅう嫌われているが、それはふつうのことを言ってるだけでおもしろくないからだ。そして、ふつうのことをふつうじゃない発見みたいに言うことはつまらなく、嫌われている。

格言はしばしば「見てるこっちが恥ずかしい」と言われる。このとき、己の恥ずかしさを案じるあまり格言を言ってる人が恥を忍んでまで格言を言う気持ちにまで思慮が届くことはほとんどないのではないか。格言を言ってる人は、発見そのものに驚いているわけではない。むしろ格言を言うような人ほど格言らしきものを嫌う傾向があることは言うまでもない。彼らは、そんな自分が格言的なものを思いつくほどの驚きに素直になることができている自分自身に驚いているのだ。パルプフィクションの聖書のくだりもそんな内容だったが、聖書(宗教)も格言の連続なのだから、それらをわざわざ紀元後2000年以上も読み継ぐ意味といったら、信仰心に貫かれている自分自身に起こっている心理的現象に強い関心があるからに違いないのだ。

だから、今私たちがすべきことは格言に全身真っ裸にされて暴かれたすべての臓器にへばりついている歪んだヘドロのような根性をケルヒャーでさっぱり洗い流すことだ。今後の人生ではもう二度と厨二病的な妄想を持て余してはならない。これから毎日朝8時に起きて、目玉焼きとトーストを一枚ずつ作って食べ、フライパンを洗ってからでないと家に出られないようにされてしまうくらい強烈な格言に出会うことを甘んじて受け入れなくてはならないのだ。夜8時以降は一切の炭水化物をも摂取してはならない。間食は脂肪分の含まれていない茶色い飴とメンソール以外許されない。真に格言に出会うとは、こういった規則性に何らの疑問を挟む余地も与えられぬまま何十年も生かし続けられることを意味する。

待ってくれ。違う!これは格言じゃない!個人の感覚に従って断定してるだけなの!なぜそうといえるか?それは………神の子だからだ。

こうして聖書は十二人の格言信仰者によって著され世界的大ヒットとなった。