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wordpressの日記( https://yajiriinu.wordpress.com/ )の移植版

飴道

私は秘密裏に飴道を志している。このことはできるだけ誰にも知られてはならないので、匿名性のあるこの場でしか告白することができない。独白は他のどんな文章よりもすみやかに淘汰され忘れ去られる類のものであるから、この匿名性のある”日記”という場を借りて活動報告をする。

ア道は古くは中国で始まった貴族にしか許されていない戯れであった。中国には竹がたくさん生えているが、砂糖の原料であるサトウキビもこの竹とよく似た姿かたちをしており、竹に擬態してしまうために大量に収穫することが難しく、砂糖が高級品とされていたのだ。当時、竹林に遊んでサトウキビを探すことは川の土手で砂金を掘り当てるぐらい無謀で、冒険的で、エキサイティングなスポーツだったという。そのため大衆の間ではサトウキビの砂糖そのものよりも、サトウキビを見つけるまでの過程をいかに楽しむかに注目が集まっており、砂糖はすべて貴族が高値で買い取っていた。漢詩にサトウキビが詠まれないのは、サトウキビを収穫することと砂糖を食べることとの間に連続性がなく趣に欠けたためだという研究もあるのだ。

砂糖の食べ方としてもっとも一般的なのはそのまま食べたり果物にかけてみたりすることだったが、フェ・テイアーという料理人が果汁と砂糖を同時に火にかけて仕えている貴族にデザートとして出したところ、冷えて固まったものがべっ甲のような美しい見た目と甘美極まりない味であったことから「飴」が発見された。テイアーの「アー」を借りてそれはアーと呼ばれるスイーツとしてたちまち宮中を賑やかし、「ア道」が始まった。

ア道は、ただ珍しい飴を食べたらいいという生易しいものではない。温故知新、すなわち昔ながらの味から眠れる価値を引き出そうという批評的時空間の中に位置づけられた高尚な活動なのだ。ニッキ飴、黒飴、カンロ飴といったクラシカルなラインナップの中にこそ飴の真価があり、昔から変わらないものにはそれなりに求められている役割が必ずあるはずで、私たちア道の者はそれを求めることをよしとしているのだ。

ニッキ飴はチャイティーと似ている。本来ティーというのは甘くするか酸っぱくするかのどちらかだが、チャイティーは敢えて辛味を投入することで滋味に満ちた新鮮な味わいと茶の本来持つ芳醇な香りを引き出している。それに、スパイスは通常固形・粉状であるので液体とはソリが合わないが意外な組み合わせは美味しさの演出とも地続きである。ニッキ飴も同様、シナモンに似ているが微妙に違うニッキを用いることで意外性を演出しつつ、トローチよりもおいしいのに薬用飴的な健康っぽさもあるといういいとこ取りを見せている。

黒飴、カンロ飴はいずれもベーシックなべっこうあめにそれぞれ黒糖、醤油を加えることで全く新しい味にしているものだ。久しぶりに食べると、こんなに美味しかったものかと驚くだろう。それもそのはずで、果汁ものの飴と違って飽きのこないまろやかな味をしているとともに、黒糖を直にかじることも醤油を飲むことも日常的にはありえないからだ。飴という日常と調味料の非日常が見事に融合したものだからこそ、素朴な顔をして意外な程のおいしさを演出するような二つのカオを持つことも可能なのだ。

したがって、家に飴がないことは日常と健康が失われている状態をも意味するし、遊びのない窮屈な空気の停滞をも招きかねない重大な事態なのだ。現代において飴なしで生活することは、すなわちストレス社会に迎合することと同義であり、先日の日記でも書いたようにAIが人を過労死させるような事態さえ招きかねないんだから、ただちにコンビニやスーパーで飴を買わなくてはならない。そのせいで私の身の回りでも飴の喪失の犠牲になった者は枚挙に暇がなく、イヌの鼻先がちょいとみぞおちを押しただけでも飛んでいってしまうような耐久性のなさは社会問題になっている。飴がないばっかりにこうなるんだ。飴さえあれば。この悔しさが胸の内で燃え続けている限り私は飴道をやめない。