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wordpressの日記( https://yajiriinu.wordpress.com/ )の移植版

犬とチャーハンの隙間

先日からずっとちまちま読んでいる町田康「真実真性日記」だが、本当に面白いのでいつまでもこの紙幅が続いてほしい。町田康(町蔵)といえば厳密な構成よりも瞬発力のある文体を得意とした一等星的詩人だが、この「日記」ももれなくそうで、且つすべてのセクションに示唆的な創造性の原種を垣間見ることができて支離滅裂なのに建設的な内容だ。

特に、人間にとって食事は栄養を摂取するだけでなく社会的・文化的な意味を持つ行為であるが、動物にとっては違うというくだりは実に思慮深い叙述だ。往来のど真ん中で弁当を立ち食いする行為はサルのそれに近く、おとなしく座って活字を読むのと同じ姿勢で食に向き合うような態度は確かに人間特有の知性の賜物であるように思われる。また、よりおいしくしようという工夫を味以外でもしようとするところに人間の特性があるのではないか。

たとえば、村田沙耶香コンビニ人間」に登場する野菜と肉に火を通しただけで塩分が欲しいときだけ醤油をかけて食われる「餌」とか、味のする液体を飲む必要を感じないので飲まれる「白湯」とかは、確かに浮世離れを通り越して人間離れした獣性を感じる描写だ。この「餌」や「白湯」が問題なのは、それが風呂桶に盛られたりファミレスのドリンクバーのコップに(本来ティーバッグを淹れるための湯が)注がれたりといった盛り付け方がいかにも不味そうなところにある。もしこれが修行僧の食事だったり朝の目覚めのためだったりと適切なシチュエーションで登場するものであればここまで不自然を通り越した妖怪じみた異質さを放つことはない。つまり、人間には食べ物の味以外で美味しさを演出する方法を豊富に知っていて、自然と食を楽しむ知能が備わっているということだ。それができない「コンビニ人間」は、まさに「人間である以上に店員」という独白の語るとおり、何か人間的な知能の損なわれた存在として描写されているのだ。

この話をさらに強化するためにわざわざ「美味しんぼ」の話をする必要はもうないと思うのだが、とにかく人と動物の違いは思考が本能にインプットされている以上の想定外の出来事にも対応可能かどうかという観点から見て論じられることが多い中、ホイジンガ的なホモルーデンスに立ち返ることのできる可能性を町田康がひとつ開拓したのだ。「犬とチャーハンの隙間」とは、あながち瞬発力のみを強みとする一発ギャグのたぐいではなく、犬がチャーハンを前にしてヒトのような知能を発揮できるか獣性を露呈するかのパンドラの匣の中にいることを表している哲学的な名前だったのかもしれない。実に面白い。