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wordpressの日記( https://yajiriinu.wordpress.com/ )の移植版

イヌの術

孔子は心の赴くままに生きても道を外れないようになるまで70年かかっている。私たち一般人が心の赴くままに生きてしまってはならない。生まれた家に住み続け地元の者とのみ交わり酒もタバコもせず人生を徹頭徹尾均一にならすことこそ賢者の生き方と言えるだろう。

町田康も言っていたが、文章を書くときは誰でも自分を他の人よりも賢く美しげに見せたくなるものだ。その性格は時として初対面の人と話すときにもあらわになる。文章を書けば書くほど、特に若いうちは謙虚さを失う。もちろん謙虚さを失い続けた結果自分で損失に気づきかえって謙虚になる人もいるが、それは希なケースだ。文を書くことについて人よりも何倍も得意げでありたい人たちがより賢くより美しげに見せるためのワザを磨き、本人の人格にも何かしらの形でそのような影響を与え、人と話すときその尊大さは頂点に達してしまうのだ。

李徴の逸話からもわかるように、尊大さは誰しもの胸の中に飼い慣らされている猛獣である。問題なのは虎を殺すことではなく、受け入れて虎穴に入り手綱をしっかりと首に巻きつけしばくことだ。しばきはやがて他者に対する許容の心となり、自らを許容する境地に至ると孔子になれる。絶対に初対面の人間に尊大になってはならない。そして、尊大になってしまったことを振り返ってもならない。イヌはその場で叱ってやらないと、後からしばいても混乱するだけだから。

尊大の代わりに謙虚になれという話ではない。謙虚さの正体がわからないからこそ尊大になってしまうのだから。要するに、この場をうまく回すために相手に協力してやればいい。そのためには他人は全員究極的保護対象生命体、赤ちゃんと思っていなくてはならない。まわりは全員赤ちゃんだから、赤ちゃんが私とのコミュニケーションの中で求めていることを探してそれを返す。そうすると赤ちゃんが自分をどう思っているかとかはどうでもよくなるので、自然と相手を優先し、気持ちのいい現場を作ることができるじゃないか。人を食ったようなやつとはこんな合理的な考え方をして生きているのではないか。人を食ったようなやつは、きっと孔子に近づくためのステップの踏み方を会得しているに違いない。

去るときはほぐし、迎えるときはしばくというイヌの戦法によって、私たちは人生を制圧する。