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wordpressの日記( https://yajiriinu.wordpress.com/ )の移植版

統計によるときみの鳥はうたえる

抹茶を使用した商品が出るたびに名義だけ貸している京都府宇治の気持ちになってみよう。これは、親戚にサッカー名人がいるというだけでサッカー玄人ぶる小学5年生を見守るような微笑ましい気持ちなのか、それとも型破りな若頭が好き放題するのを方々で尻拭いして回る組長の気持ちなのか、想像し難いものだ。なぜお茶は静岡で抹茶は京都府宇治なのか?という日本人はスルーしても外国人は見逃さないクエスチョンの存在に、京都府宇治はいちはやく気がついたはずだ。日本中の誰よりも。

世界中に自分を嫌いな人間が1割いて2割は好きで残りの7割はどっちでもないという話はウソすぎると思う。1割もの人間から嫌われてたまるか。0.2%という数字が何だか知っているか?これは、日本人の20代の中で年収が1000万以上ある人間の割合だ。多すぎないか?20代はざっくり1400万人くらいいて、その中の0.2%といえば2.8万人だ。多すぎるでしょ。日本人で20代で0.2%というこんなに限られた話の中でも3万人いるのに、世界の1割はいったい何千万人になるのか?考えただけで頭痛のする話だ。私たちはみんな何千万というアンチを生まれながらにして抱えている。そんな話があるか。ちなみに宇治の人口は18.5万人。宇治に20代の超高所得者の6倍の人数が居住していて、彼らのうち約2万人程度は私のことを嫌っていて、さらにそのほとんどが外国人が見逃さないクエスチョンに対する解を各々持っている。頭がおかしいとしか言いようのない話だ。

しかし、私たちは交わることがない。脳がそれを受け付けないからだ。人間をやめて無限に生きれば約3万人の高所得者全員と話すことができるが、それをするメリットがない。なぜなら人間をやめること自体に既にメリットがないからだ。物事を損得で考えるのをやめてみるとあっという間に統計まみれのカオス空間に放り投げ出されてしまうという危うさに、人生のスリルを感じたっていいんじゃないか。いや、むしろ損得を考えているからこそ統計に頭を支配されてしまうということもある。俺、自分の気持ちわからないや。ごめんね。きみのことは嫌いじゃないんだけど、なんか今のままの関係続けてたらきみの時間が勿体ないって思って。俺なんかよりいいやついっぱいいるから。じゃあ、俺んち踏切の向こう側だから。

🚋💨ガタゴトガタゴト

                              ☀️

 

                        空

青春の後ろ姿

クソガクセー時代、夜中に友達がおでんを食いたがりコンビニに寄って大根、ちくわ、がんもどき等と一緒に買ったねりからしを勝手にうちの冷蔵庫に突っ込んだことがあった。私はまさかうちにねりからしがあると知らず、今までどおり納豆のからし以外使わない生活を送っていた。3年後にやっとねりからしの存在に気づき、お店だけでなく家でもシューマイ、とんかつ、ソーセージなどにからしを塗って食ってもいいということに気がついた。私の心が、冷蔵庫のからしを受け入れ始めたときだった。

床に豆腐の汁をこぼしたら床で調理していいような気がしてまな板を床に置きその上できのことナッパを切って鍋に突っ込んだ。たまにはこういったハメを外しておかないと人生を網羅しきった気がしない。幼少期は床に対する嫌悪感が強く絶対に床に物を置いたり座ったりしたくなかったし特に壁際の埃がたまっている隅の部分は靴履いて立つのさえ嫌だったので、床関係の経験が私は少ない。その分を回収するように最近は床と親しく過ごしている。床に座るのはもちろん、床に手を付いたり床の上にモノを広げたりもできる。そして、それができる自分を誇りに思う。埃まみれだな。

今までシャットアウトしていたものを受け流す柳のような心を、この年になって手に入れた。理由もなく嫌うものがほぼゼロになり、嫌いになる理由があるものだけ嫌いになった。だって嫌いになる理由があるもののほうが理由がないものよりも悪質であるはずだから、そりゃ嫌いになる理由を持つところまでいっているものが嫌いなのは当たり前だろう。それ以外に関してはどうでもいい。私生活のことも仕事のことも他人のこともモノのことも、だうでもいいぜと柳の間をすり抜けていくようだ。

ここまでくると、執着こそが青春の正体だったのではないかと思う。柳の心には感受性が無く、多感に尖って過ごしてきた10代が嘘のように思えてくるものだ。今振りかえる10代の自分は想像以上に眩しい(崎山蒼志)。当時の自分と何らかの接地面を持っておかなくてはならないような気がしてくる。今日の夕飯はシューマイだった。10代の私はシューマイにからしなんぞつけていなかったのに、今じゃまっきっ黄になった醤油の小皿を啜って酒のアテにしてしまっている。からしを柳の間に通してはいけない。むしろジェリーのように敏感な柔らかい膜を心に備えることで、からしのスパイスと色味に大いに翻弄されつつ、そのやけどの跡を携えたまま翌日違う服を着て同じ街へ行くことこそが私に必要なことなのではないか。それは痛みに対する執着でもあり、痛みに真正面から抗うことへの執着でもある。

ペインにこだわり美学を追究する中二病の心の実態はピンク色の処女膜であり、からしごときにも生まれたままの姿でやられてしまう弱さと幼さを兼ね備えつつも、聖性を伴ってもいる。青春コンプレックスはこの処女膜が徒に傷つけられたことへの恨みを持つ、強姦被害者のためのレクイエムだったのだ。そういった事実でさえ、柳のごとく受け流してしまえるものなのだろうか。

俺を愉しませろ

歌詞を書きたい気持ちがかなりある。歌詞の言語はデタラメでもいいからだ。英語でも日本語でもその他の言語においても、歌詞には文章に求められるような正しい文法は必要ないし、崩すことで思いがけない方向にジャンプできることがある。

歌詞を書きたい気持ちはつまり、自意識を超えたカオス空間に自らを放り投げてしまいたいということだ。トーマス・ヘザーウィックによって設計されたコマのように回転する椅子「スパン・チェア」というものがあるが、あれは椅子を信じて目には見えない数式に自らを委ねて初めて安全に回転できるものである。歌詞もまた、本当にそこに存在しているか証明することもできないようなカオス空間にある偶然の爆発的発想をつかむことに自らを没頭させることによって書き上がる部分があると思う。ガンダムのブライトもアムロも、最初から自分に指揮官や操縦士が務まる自信があってやっているのではなかっただろう。スタンフォード監獄実験でも分かるとおり、行動が人を役にしているのだ。コマの椅子、一年戦争、監獄、これらは全て世界というカオスに己の存在を投げ打つことを人間に訴求するものであり、私たちは常に世界の一部分のどこかで身を委ねることを求められ続けているものだ。

歌詞を書くためには曲がないといけない。筋トレがなんでも筋トレになるわけではないように、音楽がなんでも音楽になるとは限らないから、それなりにちゃんとしたものが必要だ。既存の楽曲の替え歌は働くおっさん人形の浅見(浅見は当時インターネットで人の代わりに調べ物をすることでかなりの額のお金を稼いでいたという、見た目は向井秀徳に少し似ているのに全く違う景色が彼らの間には広がってあるに違いない)のようで冷めてしまうので、作曲もする必要がある。しかし作曲は作詞のようにカオスに身を委ねるのではだめだ(AKIRAの音楽を作った学者は秩序とカオスの両立した作曲方法をしていて、天才)。

作詞でもカオスでもなんでもいいから、おもしろいことしてないといけない。俺が俺に飽きてしまったら生きてもしょうがなくなってしまう。

お引越し カゴ編

単身だが、一般的な引越し荷物とされるダンボール15個分に荷物が収まらなかった。どう考えても使ってないタオルや洗剤にストレージが圧迫されているためだ。カーテンしまう箱がなくなった。これには敗北感を覚える。なぜなら、家には大したものをおいていないと自覚しているからだ。いらないタオルと洗剤と掃除道具のストックしかうちにはない。一人しか住んでいないのにあと3人は優に養えるほどタオルと洗剤がある。今、全く使ってないいらないものを全て新品のまま捨てていいならすぐにでも50Lのゴミ袋をパンパンにできることだろう。いっぱいいっぱいになった15個のダンボールは、世界中で起こっている食品の廃棄問題と同じくらい深刻な状況を意味している。

あとカゴな。カゴってマジでいらないわ。結局脱衣所の床に服脱ぎッぱにするし洗った皿もそのへんにタオル敷いて置くし、あと収納の中に洗剤だけを入れておくためのカゴを置いたけど全く意味なかった。あれなんだったんだろう。そもそもカゴを買おうと思って買った記憶が一切なく、あのカゴの出自が不明だ。使わないのになんでカゴ買った?三角コーナーのカゴも、うちのシンクのおもさゃぼこみたいな狭さでは何の役にも立たない。自分でも何をしようとしていたのかさっぱりわけがわからないが、カゴが6つはあるので、捨てるつもりだ。粗大ゴミはお金を払って申し込みしなければ回収してくれない。面倒だ。邪魔、面倒、不要の負の三拍子には使われなかったカゴの怨念が取り憑いており、死の舞踏会が開かれていて、私の理性は今失われようとしている。引っ越さなければこんなことに気づかなくてよかった。カゴもタオルも私も悪くない。引っ越しが私の理性をかき乱している。住所をうつすくらいのことでどうして?こっちが聞きたいぜ。

ア道のゆくえ(榮太樓飴編)

榮太樓飴という高級飴がある。とても悲しい飴だった。その飴は缶の中に入っていて、中身の鮮度を保つために真空になっているためビールの瓶のように固く栓がされているのであった。その栓は普通の缶のように缶切りやプルタブで開けるものでも回して開けるものでもなく、硬貨などのひらぺったい金属を蓋の下に差し込んでひねって開けるというもの。ビール瓶を10円で開けるのと同じ方法をとらなくてはいけないのだ。そんな芸当が誰にできるの?しかし、どうやら江戸時代からそのような缶で売られており、缶を開ける所作まで含めて根強い人気があるらしい。私の榮太樓飴は10円で開けるのに何回も失敗したせいで360度缶の塗装が剥がれて傷だらけになってしまった。中の飴はものすごい甘さで、砂糖をそのまま押し固めたようなものである。噛むとガリガリならずギュッとした歯触りでとてつもない甘味が広がり、その密度を感じることができる。

榮太樓飴を食ったあと、冷蔵庫で2年冷えていた純露をとりだした。馬も喜んで食べているという純露は端っこをひっぱったらすぐにひん剥くことのできる安価な飴であり、噛むとガリガリするが、別にこれでいいと思った。もちろん榮太樓飴にも魅力はあって、非常に高温で押し固められた砂糖の味をこれほど究極のものにできるのは榮太樓飴職人だけであることも理解できた。でも2年冷え続けた純露で十分だ。あんなに栓を開けるのに苦戦したのにこの程度?って思っちゃうし、何より榮太樓飴の缶は開けるのが大変なくせに一度開けたら閉まらないようにできていて悲しくなった。このまま棚に入れたらアリがたかるから缶を廃棄し別容器にうつした。あの缶、何のために生まれてきたんだろう。傷つけられて開いたらすぐ捨てられる。惑星探査機やラジオゾンデも使い捨てられるものだがそれよりはるかに悲哀に満ちた缶だった。開かない、閉まらない、純露でいいの三拍子に私の理性は失われようとしていた。狂気のワルツ、榮太樓飴。

まりもに過保護

咲く頃に雨が降り気温が下がることによって散っていく花がある。それを見るたびに、この花は雨が降らなかったらどれだけ咲き続けることができただろうと思っている。雨も降らず夏も来ず気温は一定で、常に花にとって理想的な環境が整えられた場合の花の実力を知りたい。

私はこの心情を過保護だと感じている。花に対してばかりでなく草や動物に対しても過保護であるため、水槽のなかに生き物を飼育する際には水を替える装置を取り付けることにしか頭が回らず、ビオトープによって自然の生態系を再現させるという発想は人から授かるまで考えもしないことだ。このように過保護である私はまりもを飼い始め、このうさぎ小屋のような独房に初めての同居人を迎え入れた。先日水族館に行ったとき、「生きています」というポップとともに600円で売られていたものである。まりもはチョコボール程度の大きさをしていて、さわると硬い。買った日に水換えをしたら沼のような匂いがかなりして、かわいそうだった。何ヶ月も何年もああやって置いてあったのだろうか。

飼育しているまりもをお出かけに連れて行くという記事をみつけた。

 

まりももペットであり、インテリアとは一線を画しているという意識。これはまりもを独立した意思のある生き物として見ていることにほかならない。私もまりもを過保護するあまり肥料を水に投入するような事態を避けるためにも、まりも離れのための旅行をしよう。南くんの恋人のようにまりもを忍ばせ、休憩どころでおもむろに取り出し、景色や料理をまりもに見せる。サボテンに音楽を聴かせて育てるという有名な話のとおりなら、まりもは街の多彩な音色に刺激されてますます鮮やかな藻を生やしてくれるはずだ。ぬいぐるみとお出かけするように、まりもとバーに潜入してみよう。

それにしてもこの記事のまりもは私のものよりも大きく、鮮やかな緑色だ。沼臭のする水に浸かっていた私のまりもはあんまり元気がないみたいで、彩度の低い深緑色をしていた。水を替えてからは、表面にすこし鮮やかな緑の藻を新しく纏うようになった感じがする。このうさぎ小屋の水道水を気に入ってくれるなんて嬉しい限りだ。なんてかわいいまりもだろう。迎え入れてからまだ一週間くらいしか経っていないが、電灯にあてるとわずかな気泡を観測できることがあり、生きているのがわかる。これまで、玄関から先は私が見ていない間はロードされていなくて無の空間が広がっているように感じることがあったので、私の他にも生活を営んでいる生物が世界に存在している事実に安心する。この電球型の容器も、うさぎ小屋を遍く照らす命の輝きを象徴しているように思えてならない。花を散らす雨をまりもと浴びに小屋の外に出よう。

胸の奥と尻の穴が酸っぱくなる頃

俺たちの超てんちゃんの新曲「インターネットやめろ」が、発表された。令和の電波ソングである。電波ソングというのは、他人にそれを聞いていることを知られてはいけない音楽である。今よりもっと”オタク”が差別的な目で見られているとき、電波ソングはPC美少女ゲームの発展を背景に爆発的に増殖し、深夜アニメが市民権を得ると一気に絶滅した。そんな電波ソングはvaporwaveのように、聞かれなくなっていく音楽や廃れていく文化の悲哀を内包した存在であると同時に、薄ら寒く風化した風習を自嘲するようなコンプレックスも大いに感じられるものである。「インターネットやめろ」は電波ソングの要素として両者ともに持ち合わせているし、懐古厨・社会不適合者と罵られる俺らが散々聞いてきた平成の電波ソングを微妙に凌駕する包容力と神秘性が感じられる。その凄みの理由には、歌手である超てんちゃんが俺らと同じ痛みを持って生きていることが関係している気がする。

胸の内と尻の穴はどちらも同じもので、人に見せることは決して許されないものである。家族であろうと配偶者であろうと神父さんであろうと、誰にも晒すことのできないものが俺たちのソウルとアナルであり、本質である。そして電波ソングもまた、誰にも見られないところでこっそりと聞かれるものであり、尻の穴を覗き込むことで自らの身体と対話するように、電波ソングを通して胸の奥底にある自意識と向き合うことも可能になるというものだ。尻の穴も胸の奥も、自分で自分のものを見ることは難しいものである。そういった深淵の部分の触媒として電波ソングは存在していた。インターネットエンジェルは、過ぎ行き忘れ去られながらも、確かに私たちの頭上に影を落とし続けている。