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wordpressの日記( https://yajiriinu.wordpress.com/ )の移植版

青春の後ろ姿

クソガクセー時代、夜中に友達がおでんを食いたがりコンビニに寄って大根、ちくわ、がんもどき等と一緒に買ったねりからしを勝手にうちの冷蔵庫に突っ込んだことがあった。私はまさかうちにねりからしがあると知らず、今までどおり納豆のからし以外使わない生活を送っていた。3年後にやっとねりからしの存在に気づき、お店だけでなく家でもシューマイ、とんかつ、ソーセージなどにからしを塗って食ってもいいということに気がついた。私の心が、冷蔵庫のからしを受け入れ始めたときだった。

床に豆腐の汁をこぼしたら床で調理していいような気がしてまな板を床に置きその上できのことナッパを切って鍋に突っ込んだ。たまにはこういったハメを外しておかないと人生を網羅しきった気がしない。幼少期は床に対する嫌悪感が強く絶対に床に物を置いたり座ったりしたくなかったし特に壁際の埃がたまっている隅の部分は靴履いて立つのさえ嫌だったので、床関係の経験が私は少ない。その分を回収するように最近は床と親しく過ごしている。床に座るのはもちろん、床に手を付いたり床の上にモノを広げたりもできる。そして、それができる自分を誇りに思う。埃まみれだな。

今までシャットアウトしていたものを受け流す柳のような心を、この年になって手に入れた。理由もなく嫌うものがほぼゼロになり、嫌いになる理由があるものだけ嫌いになった。だって嫌いになる理由があるもののほうが理由がないものよりも悪質であるはずだから、そりゃ嫌いになる理由を持つところまでいっているものが嫌いなのは当たり前だろう。それ以外に関してはどうでもいい。私生活のことも仕事のことも他人のこともモノのことも、だうでもいいぜと柳の間をすり抜けていくようだ。

ここまでくると、執着こそが青春の正体だったのではないかと思う。柳の心には感受性が無く、多感に尖って過ごしてきた10代が嘘のように思えてくるものだ。今振りかえる10代の自分は想像以上に眩しい(崎山蒼志)。当時の自分と何らかの接地面を持っておかなくてはならないような気がしてくる。今日の夕飯はシューマイだった。10代の私はシューマイにからしなんぞつけていなかったのに、今じゃまっきっ黄になった醤油の小皿を啜って酒のアテにしてしまっている。からしを柳の間に通してはいけない。むしろジェリーのように敏感な柔らかい膜を心に備えることで、からしのスパイスと色味に大いに翻弄されつつ、そのやけどの跡を携えたまま翌日違う服を着て同じ街へ行くことこそが私に必要なことなのではないか。それは痛みに対する執着でもあり、痛みに真正面から抗うことへの執着でもある。

ペインにこだわり美学を追究する中二病の心の実態はピンク色の処女膜であり、からしごときにも生まれたままの姿でやられてしまう弱さと幼さを兼ね備えつつも、聖性を伴ってもいる。青春コンプレックスはこの処女膜が徒に傷つけられたことへの恨みを持つ、強姦被害者のためのレクイエムだったのだ。そういった事実でさえ、柳のごとく受け流してしまえるものなのだろうか。