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wordpressの日記( https://yajiriinu.wordpress.com/ )の移植版

俺を愉しませろ

歌詞を書きたい気持ちがかなりある。歌詞の言語はデタラメでもいいからだ。英語でも日本語でもその他の言語においても、歌詞には文章に求められるような正しい文法は必要ないし、崩すことで思いがけない方向にジャンプできることがある。

歌詞を書きたい気持ちはつまり、自意識を超えたカオス空間に自らを放り投げてしまいたいということだ。トーマス・ヘザーウィックによって設計されたコマのように回転する椅子「スパン・チェア」というものがあるが、あれは椅子を信じて目には見えない数式に自らを委ねて初めて安全に回転できるものである。歌詞もまた、本当にそこに存在しているか証明することもできないようなカオス空間にある偶然の爆発的発想をつかむことに自らを没頭させることによって書き上がる部分があると思う。ガンダムのブライトもアムロも、最初から自分に指揮官や操縦士が務まる自信があってやっているのではなかっただろう。スタンフォード監獄実験でも分かるとおり、行動が人を役にしているのだ。コマの椅子、一年戦争、監獄、これらは全て世界というカオスに己の存在を投げ打つことを人間に訴求するものであり、私たちは常に世界の一部分のどこかで身を委ねることを求められ続けているものだ。

歌詞を書くためには曲がないといけない。筋トレがなんでも筋トレになるわけではないように、音楽がなんでも音楽になるとは限らないから、それなりにちゃんとしたものが必要だ。既存の楽曲の替え歌は働くおっさん人形の浅見(浅見は当時インターネットで人の代わりに調べ物をすることでかなりの額のお金を稼いでいたという、見た目は向井秀徳に少し似ているのに全く違う景色が彼らの間には広がってあるに違いない)のようで冷めてしまうので、作曲もする必要がある。しかし作曲は作詞のようにカオスに身を委ねるのではだめだ(AKIRAの音楽を作った学者は秩序とカオスの両立した作曲方法をしていて、天才)。

作詞でもカオスでもなんでもいいから、おもしろいことしてないといけない。俺が俺に飽きてしまったら生きてもしょうがなくなってしまう。