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wordpressの日記( https://yajiriinu.wordpress.com/ )の移植版

理解っちゃった…

4ヶ月くらい毎日ブログを書いていたが、それを1週間くらいやめていた。なんのためにこんなことをしているのかわからなくなっていた。ネタ切れもいいところで、気持ちの入った記事も最近なかったし。そういった心境を分析してみよう

 

ブログをしない間、流行りの「needy girl overdose」というPCゲームをしていた。ゲームの概要はググれ。おまえらには承認欲求はありますか?私はあめちゃんの姿を見ていて、SNSをしている若者たちの注目されたい欲求の背景にあるものが少しみえてきた気がした。あめちゃんは情緒も人格も安定していなくて、みんなに認められたいと願いながらもそんな欲求を持つことのくだらなさを俯瞰するような目線も持っている。あめちゃんは、自分が納得するような自己像を作るために活動していたのだと思う。だから、人からちやほやされる自分でもありたいし、超然とインターネットを眺めるような悟りを開いた自分でもあろうとするし、ピにいくらでも子どものように甘えられる身でもありながら、オタクたちを甘やかすエンジェルにもなろうとする。あめちゃんにはいろんな理想の自己像があって、それを実現させたい気持ちが承認欲求とないまぜになっていたのだ。フォロワー数は、自分がどれだけ理想に近づいているか客観的に測るための指数だったのではないか。

この手の話題でよくヘンリーダーガーのことを思い出す。彼は生涯誰にも公表せずに自作の挿絵付き小説を書き続けていた。彼は人から自分の作品を承認されることを求めていなかった。なぜなら、自分の作品(やっていること)が自分に結果をもたらしていると確信していたからだ。ヘンリーダーガーではない人も、生きているうちに理想的な命の遣い方をしたいと思って努力している点ではヘンリーダーガーと同じだ。違うのは、自分のしていることが本当に理想的な命の遣い方であるか確信できるかどうかだ。普通の人はそんな確信はできないから他人に見て認めてもらうことで安心しようとする。でも根底にある「理想に近づきたい」という欲求は共通しているんだから、究極的には世の中の「承認欲求こじらせ女(男)」といわれる人たちはヘンリーダーガーであるのではないか。

私もブログを続けることで何かいい生き方をする助けになると思っていたからやっていた。しかし次第に人から見られたいという気持ちのほうが強くなっていった。ヘンリーダーガー、岡本太郎山下清のようにありたいが私は彼らとは別人だ。あめちゃんとも違う。私は何なんだろう。ブログをやめたほうがスッキリするかと思ったが全くそんなことはなく、持て余した夜の時間は長く、その時間をつかって見に行ったブルージャイアントという映画ではっきりと劣等感を映写機に写されたような気持ちにもなってしまったので、続けることにした。今まで見られたいがために3つの場所にマルチポストしていた。今後もそうするつもりだが、今度はアーカイブ(バックアップ)のつもりでやることにして閲覧は期待しないことにしなくてはいけない。わけがわからない。混乱している。なぜこんなものを、誰に向けて書いてるのかさっぱり不明だ。おまえらって誰だ?お前は誰だ?

球を裏返していた頃

ウチらのアンセムがやってきた!

この頃は賃貸にいくら無駄なお金を払ってるか考えなくてよかった。逆に言えば、賃貸に無駄なお金払ってるという発想すらなくしてしまえば、楽に生きることができるのでは?(前提として今起こっていること:まだ契約する前ですが賃貸選びに失敗しました。家賃が安く広い部屋を契約することもできたのにそれをやめて、狭いし家賃高い物件を明日契約しにいかなくてはならなくなりました。完全に見栄を張りすぎて失敗しました。正直引越したくありません。でもこれから鬼のような巨額を払って住みたくない家に住むための手続きをしなくてはなりません。なんとかなる?ならない?)

まだこれから人生が長々続いていくことを考えると、今をベストの状態に保っていなくてもいいはずだ。現在は不便な家にお金を払い続ける暮らしでも、今後はその経験を活かして改善していけるはずという発想。2年後の契約更新前に貯金を削ってバカ高い初期費用を伴う再引越しをすることも当然、視野に入れている。引越しRTA。愚かだった。球を裏返す方法に感心していた頃も愚かだったが、愚かさの責任の重みがまるで異なっている。マジで引っ越したくないあの狭い部屋に。しかも引越し業者からぼったくられやすいこの時期に。最悪すぎ。あの部屋はよしておけばもっと前向きに暮らせたのに……………つまり、新居ははじめから魅力的な物件を選ぶのではなく、「いいんだけど、もうちょっとアレだったらな~」ぐらいのものにして、今後の努力次第でいい暮らしができるようにしておくのがいいのだ。

契約したくないですって言ったらどうなる?二度と部屋貸してもらえなくなるのかな。来年の盆休みに引っ越そう。あの部屋はうさぎ小屋くらいの面積しかない。うさぎじゃないんだけど。うさぎじゃないんですけど。引越し初日に人呼んで楽しい思い出作らないと新居のこと好きになれそうにない。うさぎではないという気持ちを持ち続ける暮らしが始まろうとしている。うさぎではないということに意識を集中させることで鬱を散じることも可能だ。おそらく10年後も同じ感じで生きていると思う。

中年シンデレラ

シンデレラやダンボやバンビを見て泣くことが多くなった。ディズニー映画はとても小さい頃に見た記憶しかなく、映像が綺麗で楽しいイメージだったのが、今になってみるとかなり重い話だったことがわかる。ディズニーのいう「夢」は、のほほんと幸せに暮らしている人が見る「あーあ、もっとおもしろいこと起きないかな~」のテンションのものではなく、普通の人では耐えられないような逆境に対抗するための唯一の手段として残されたもので、「夢」によってしか救われない人のためのものであると気づいた。どんなにつらく悲しいことが立て続けに起こって人生に絶望していても、どうにか今よりいい暮らしをすることを諦めないという具合の泥臭い努力によって支えられているのが「夢」だった。

そう考えると、「魔法」というものもハリポタのように与えられし者に慢性的に備わっているファンタジー能力というよりも、つらい中でもがんばって耐えている(自殺しない)人の人生が報われる瞬間のことを指していると解釈できる。心身ともに死なないで耐えていれば今よりは幸せになるチャンス(=魔法)が訪れるという希望(=夢)をアニメを通して与えていたのがディズニーだった。この事実には年を重ねれば重ねるほど身にしみるような感傷を感じる。ディズニーリゾートがバカ高い入場料をとってエンタメを提供していることとはまた別の次元にディズニーアニメの精神があるということを忘れてはならない。

カニコーセンという関西のおっさんの歌もちょうど同じような感傷を与えてくれる。

「泣いてる でも生きてる」渋いシンデレラだ。

お酒ロマネスコ

町田康によると、人間は自分の壁を越えたいと常に思っており、そのために酒を飲むらしい。しかし酒を飲んでいる人の言うことはしらふのときに言うことよりかなり劣化しているように感じる。酒を飲んだほうが限界を超えれるのはINUのような元々タガの外れた人だけなのではないかと思う。

タガの外れた人というのは、勢いがある豪快な人という意味ではない。むしろ逆で、普通の人が気がつかないようなことを細々とどこまでもロマネスコのように深く追究する癖がある人のことだ。通常「ま、ここまで考えてもな」で済ませるところを限りなく深追いする、リミッターのリミッターが外れているような人が酒を飲むからいいのだ。そもそも酒とは人間の頭をあやふやにするものであり、視界にぼかしを入れ、散漫にし、マヨネーズをふきんで広げるように限りなく薄められた思考をどこまでも延ばすように仕向けるものだ。よって、普段から考えすぎる人がロマネスコの水平線を越えようとして酒を飲むと、かえってロマネスコの全体像が見えて遠視用メガネをかけたかのようにピントが合うことがあるのだ。そうではない人が酒を飲んだところでいつも以上に支離滅裂になるだけで意味がない。人間のあり方としてしらふ状態のほうが正しいし、臓器を無駄に疲弊させる前に断酒するべきだ。

私は健康診断を前に酒を飲めないことに憤怒している状態だが、飲んでいないほうがきっといいことを言えているだろう。実際、飲み会でしゃべっていると「酔っている私の話を聞いて誰が得するのか」と真っ当なことが頭に思い浮かび途中退場を決め込むことさえある。その判断は客観的に見ても正しいものであった。アルコールは実際に脳機能を低下させるため、あまりにも脳機能がはたらいていないと人の手を煩わせることは必至であることからも、酔っている人間は他人から遠ざかったほうが良い結果がついてくることは間違いない。

人前で大いに酒を飲んで楽しむ人、怒りを溜め込むことを悪とする人、不要なものにお金を払う行為を心底無意味として見下す人、彼らは非常に幸福だ。お酒に頼らなくたってロマネスコの全貌が常にぼんやり見えている状態だから。

判で押したようなもの

家の中でものをなくすので、携帯電話を5日間特に探さないまま過ごしたら連絡が500件くらい来ていて、失踪したと思われていたことがあった。私にとってものは探さないとなくなるものであり、探しもしないのにどこにあるかわかるものというのはない。何もかもすべて忘れ、予約していた病院や映画のチケットのことも忘れるので、基本的に前日か当日にしか予約を入れないようにしている。人との約束も前日か当日だ。仕事の約束はほかの人に覚えてもらっているかメモに覚えてもらっている。メモをなくすと終わりだ。今のところ失敗したことはないが毎日細い綱の上を渡るような暮らしをしていて、薄氷を踏みながら生きながらえている事実から目を背けるためにいろいろなものが必要だった。必要なものを得るために犠牲にされたものもあった。

という話はすべて嘘っぱちなのだが、こういう文章は何も考えなくても頭からスラスラ出てきてしまう。何も考えず手癖で絵を書くと出てくる判で押したような美少女と同じように、私の手癖は判で押したようなギリギリ人(じん)だ。昔ニコニコで見たギリジンのこと思い出すね。ああやって、人間のギリギリさ加減を他人に笑ってもらえるまでの作品に仕上げるまでどれくらいかかったのだろう。ギリジンよお~。五輪のときはとばっちりだったね。判で押したようなユダヤ人、判で押したようなピクトグラム、判で押したような絵本作家、型なくしてはものごとは生まれることができないといえるほど判で押したものだけで世界は構成されているようだ。

明らかに度数9パーセントの酒はやりすぎだとみんな思って、7パーセントのバリエーションが増えてきたと思ったら、今は0.5や1の超低アルコールの世界がにぎわっている。判で押してないのはアルコールの世界だけだ。人間のアルコール分解能力が判を押したものではないことを理解している。度数3でくたばってしまう人はそもそも人前でアルコール飲料を飲まないので、本当に飲めない人の実態を私はまだ知らない。まだ知らない領域があるということは、超低アルコール飲料の世界は判で押したようなものではないということだ。私も消毒用アルコールを5パーセントくらいに薄めたものを飲んだら死ぬかと思ったから、なんとなく飲めないというのがどういうものか感じることはできる。判の枠を超える行為のための消毒用アルコール飲料だった。

アウトサイダーは命

邦画を見ていると人間を陰湿に描く技術はトップクラスだと思う。これはdisではなく、傾向としてそう思う。悪質ないじめや仲間はずれ、暴言、人を人とも思わないような傍若無人ぶりを徹底的に見せてくれるのは邦画だけだ。私が知らないだけでそんないじめは日常的に起こっているのか?一部の本当に終わった集団の中ではありうるが、現実にはないと思っていたのに、邦画を見ていると本当に当たり前にある光景のように誰も解決しないいじめが描かれ続けていて常識が改変されようとしているようだ。

あ、言い忘れてたけどさっきから映画「神は見返りを求める」の話をしています。完全にネタバレをするが、最後のゴッティーのダンスこそが真のクリエイト行為であり、命の輝きであり、支持されるべき活動だと私のような者は思ってしまう。あのダンスはゴッティーがはじめて見返りを求めず他者の目を意識せず(見られることを求めず)心の奥底から湧き上がってきたものを表出したものであり、芸術の根源のありどころである。

アウトサイダーアートについて知ると特にそう思うのだが、美術史に残るためでもお金にかえるためでもなく、ただ自分の生の感覚を表出するためだけに人間は創作をしている。生きているといろいろなことが起こりすぎるので、そうしないではいられないのだろう。実は生きている誰もがゴッティーのダンス的な表現を常にせずにはいられないものであり、創作は人間が存在するために必要なものだ。もちろんゴッティーのダンスが傍から見たら異常者の錯乱にしか見えないのと同様に、創作といっても必ずしも周囲に価値が認められるものではない。しかし、ひたすらに自分のためだけに自分の内部に煮えたぎっている命を放出する行為は、芸術・創作・表現活動の根源であるという意味で重大な価値を持っている。私たちは、ゴッティーのダンスからそれを見出すことができる。というか、ゴッティーのダンスに説得力を持たせるために低俗配信者の話にしたんじゃないかと思う。

残念なことに、アウトサイダーアートと呼ばれる作品をつくった人たちは得てして不幸で、社会的なつながりとはほぼ無縁と言って良い生活を送っており、陰湿ないじめどころではない仕打ちを受けていることもままあるのが現実だ。ゴッティーもまともな幸せを享受できたわけではない。そこまでひどい逆境がないと芸術的な生き方はできないと言えるだろう。お前らはどう生きたい?命をどうやって使うかは命の所有者に委ねられているが、その決定権は生き物にとって重すぎると私は常々感じているのだが、お前らはどうすんの?私は絶対不老不死一択だけど。

日本人が不幸なのはお前のせい

自分で言うが、私の勘は非常に鋭利であり、個人的な感情に左右されていない限り99%的中する。特に目の前にいる人がどのような性質を持っているかという点に関しては100%あたってしまう。特に人の欠点を見つけるのが得意であるため、相手がどんなときに嫌な人になるかだけでなく、相手が何をされたら嫌がるかまでわかる。しかしこれはその人のことを嫌いになるのとは別の話であり、例えるならウノで攻撃カードを所持していることを伏せながらどうでもいいカードばかり出してザコ手札をカモフラジュることによって序盤で警戒されないようにするような具合で、ワイルドカード的に活用できる情報となるのである。つまり私は他者を警戒し、いつでも迎撃できる準備を整えておくことによって日々生きながらえているのだ。

これは私に限った話ではない。このように陰謀論と強盗と半グレが元締めの投資詐欺がのさばる世の中では、人のいい者から搾取され社会から強制退出させられることは明らかだ。そのため私だけでなくほとんどの人が他者を警戒しながら生きているはずであり、あわよくば利用してやろうという底意地の悪さが”必要悪”の名でまかり通っている。私はこんな世の中でもずるを許したくないから、昨日の記事でさんざん書いたようにnoteで読んでもないのに「スキ」やコメントで自らの存在をアピールすることによって営業することもないし、なんなら他者との交流そのものを拒絶しているといってもいい。だってこの世では交流=ずるになるから。交流=営業だし、交流=搾取。他者とのあたたかな心の交わりの中に魂の解放を期待する時代はとっくの昔に死滅していた。こんな等式がまかり通っている日本だから、もちろん幸福度も戦争がない先進国の中では圧倒的最下位なわけだ。

幸福といえば、以下の動画では人間が充実感を得られるのは感謝するときであると学術的にわかっていると述べられている(日本語字幕あります)。

他者との利益の応酬が感謝によって引き起こされ、それによって所属の意識が生じると生存の確率が高まるため、人間は感謝の心を持つことによって充実感(生命の持続のためにプラスになることをしたという感覚)を得られるようにできているとのことだ。

まあ、これは縄文時代とかならそうかもしれないが現代は一人でも収入さえあれば生きていけるからこの限りではない。労働も、もちろん感謝などの魂を伴ったはたらきをしたほうが昇進して給料が上がることはあるかもしれないが、別に機械的に人と接するだけでも収入は得られるし、人と接さずに稼ぐ方法もある。したがって、現代においては特に幸せでなくても十分生きていけるので、日本人が誰にも感謝せず他者を退け警戒し不幸だと感じながら一生を終えたところで、寿命を全うできるんだから何の問題もないのだ。

記事を読まないカスのためにもう一度書くが、日本人は不幸でも何の問題もありません。幸せになる必要はありません。

そんなことより「幸せにならなきゃダメ!」と言って徒に不特定多数のコンプレックスをくすぐって怪しいものを買わせたりアフィ収入を得たり変な価値観を植え付けたりするような、アコギ商売が蔓延してしまうことのほうがよほど問題であって、私はこういうずるを絶対に許さない。そう、記事を読まないお前のことだよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!