wordpress

wordpressの日記( https://yajiriinu.wordpress.com/ )の移植版

お酒ロマネスコ

町田康によると、人間は自分の壁を越えたいと常に思っており、そのために酒を飲むらしい。しかし酒を飲んでいる人の言うことはしらふのときに言うことよりかなり劣化しているように感じる。酒を飲んだほうが限界を超えれるのはINUのような元々タガの外れた人だけなのではないかと思う。

タガの外れた人というのは、勢いがある豪快な人という意味ではない。むしろ逆で、普通の人が気がつかないようなことを細々とどこまでもロマネスコのように深く追究する癖がある人のことだ。通常「ま、ここまで考えてもな」で済ませるところを限りなく深追いする、リミッターのリミッターが外れているような人が酒を飲むからいいのだ。そもそも酒とは人間の頭をあやふやにするものであり、視界にぼかしを入れ、散漫にし、マヨネーズをふきんで広げるように限りなく薄められた思考をどこまでも延ばすように仕向けるものだ。よって、普段から考えすぎる人がロマネスコの水平線を越えようとして酒を飲むと、かえってロマネスコの全体像が見えて遠視用メガネをかけたかのようにピントが合うことがあるのだ。そうではない人が酒を飲んだところでいつも以上に支離滅裂になるだけで意味がない。人間のあり方としてしらふ状態のほうが正しいし、臓器を無駄に疲弊させる前に断酒するべきだ。

私は健康診断を前に酒を飲めないことに憤怒している状態だが、飲んでいないほうがきっといいことを言えているだろう。実際、飲み会でしゃべっていると「酔っている私の話を聞いて誰が得するのか」と真っ当なことが頭に思い浮かび途中退場を決め込むことさえある。その判断は客観的に見ても正しいものであった。アルコールは実際に脳機能を低下させるため、あまりにも脳機能がはたらいていないと人の手を煩わせることは必至であることからも、酔っている人間は他人から遠ざかったほうが良い結果がついてくることは間違いない。

人前で大いに酒を飲んで楽しむ人、怒りを溜め込むことを悪とする人、不要なものにお金を払う行為を心底無意味として見下す人、彼らは非常に幸福だ。お酒に頼らなくたってロマネスコの全貌が常にぼんやり見えている状態だから。