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wordpressの日記( https://yajiriinu.wordpress.com/ )の移植版

判で押したようなもの

家の中でものをなくすので、携帯電話を5日間特に探さないまま過ごしたら連絡が500件くらい来ていて、失踪したと思われていたことがあった。私にとってものは探さないとなくなるものであり、探しもしないのにどこにあるかわかるものというのはない。何もかもすべて忘れ、予約していた病院や映画のチケットのことも忘れるので、基本的に前日か当日にしか予約を入れないようにしている。人との約束も前日か当日だ。仕事の約束はほかの人に覚えてもらっているかメモに覚えてもらっている。メモをなくすと終わりだ。今のところ失敗したことはないが毎日細い綱の上を渡るような暮らしをしていて、薄氷を踏みながら生きながらえている事実から目を背けるためにいろいろなものが必要だった。必要なものを得るために犠牲にされたものもあった。

という話はすべて嘘っぱちなのだが、こういう文章は何も考えなくても頭からスラスラ出てきてしまう。何も考えず手癖で絵を書くと出てくる判で押したような美少女と同じように、私の手癖は判で押したようなギリギリ人(じん)だ。昔ニコニコで見たギリジンのこと思い出すね。ああやって、人間のギリギリさ加減を他人に笑ってもらえるまでの作品に仕上げるまでどれくらいかかったのだろう。ギリジンよお~。五輪のときはとばっちりだったね。判で押したようなユダヤ人、判で押したようなピクトグラム、判で押したような絵本作家、型なくしてはものごとは生まれることができないといえるほど判で押したものだけで世界は構成されているようだ。

明らかに度数9パーセントの酒はやりすぎだとみんな思って、7パーセントのバリエーションが増えてきたと思ったら、今は0.5や1の超低アルコールの世界がにぎわっている。判で押してないのはアルコールの世界だけだ。人間のアルコール分解能力が判を押したものではないことを理解している。度数3でくたばってしまう人はそもそも人前でアルコール飲料を飲まないので、本当に飲めない人の実態を私はまだ知らない。まだ知らない領域があるということは、超低アルコール飲料の世界は判で押したようなものではないということだ。私も消毒用アルコールを5パーセントくらいに薄めたものを飲んだら死ぬかと思ったから、なんとなく飲めないというのがどういうものか感じることはできる。判の枠を超える行為のための消毒用アルコール飲料だった。