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wordpressの日記( https://yajiriinu.wordpress.com/ )の移植版

規制と程度問題

もう年の瀬も終わりだが、私には時間があるのでテキトーな生放送をクルージングしていたら流行語大賞の話が出ており、そういえばそんなもんもありましたな~おもて調べてみたら、「侮辱罪」がないことにおでれえた。現代が90年代とは明らかに切り離された新時代になろうとしていることを最も象徴しているように思うのだが、みんな「侮辱罪」を普通に受け入れているのだろうか。

 

五輪でいろんな作家の過去の不祥事が掘り起こされ、複数名の著名な作家たちが開会式の演出・美術から降板させられたことは記憶に新しい。このように現代では、単にネットが普及する前と比べて今は情報が一気に拡散するから炎上しやすくなったとかいうレベルでなく、キャンセルカルチャーがカルチャーとしての顔を持つようになるくらい当たり前にいつでもどこでも発生しているのが特徴といえる。10年代よりも20年代のほうが、ネットの低年齢化もあって頻繁に見るようになったと思う。悪しきものはつまみ出し、存在の余地を与えず完膚なきままに叩きのめすという風潮は現代では当たり前のように蔓延していて、一度不祥事を起こしたら二度と顔を見たくない・復帰を拒否するという声が何年も当人の周りにはまとわりつくことになる。この現象には、インターネットが憎悪を増幅させる装置であることも無関係ではない(そういうこといろんな人が言ってる)。

そんな中、「侮辱罪」が本格的に適用されるようになり、Twitterなど各種SNSだけでなく2ちゃんやがるちゃんといった掃き溜め的な掲示板にまで検挙の手が及んでいる。著名人だけでなく匿名の一般人もうかつな発言はできないということで、誰にとっても無関係な法律ではないだろう。私個人の意見として、「侮辱罪」はネットの低年齢化に伴うユーザーのリテラシーの低下を踏まえたうえで、誰もが安心して情報を発信することができる公の場としてインターネットを位置づけるために必要である一方で、キャンセルカルチャーを加速させ抑圧的な雰囲気を醸成することによる排他的で鬱屈したコミュニケーションが現代人のスタンダードな態度として広く身につけられてしまう恐れがあると思う。「侮辱罪」はあっていいものだが、何がその「罪」にあたるものかは慎重に議論すべきだ。ただ、法律の中に「侮辱罪」が定義されている以上、法律は国民の感情に基づいて施行されているものなので、基本的な”法律”の考え方に立ち返ってみると多くの人の感情が害されるものを「罪」として認めなくてはならないことになる(憎悪増幅装置でもあるインターネットでよく言われる「懲役○年?軽すぎる!極刑を要求する!」みたいな、外野が騒いでるだけのものは置いといて)。

たとえば、著名人がインターネット上で執拗に粘着されてあることないこと書かれてるような場合は「侮辱罪」だが、正直誹謗中傷のツイートにちょっとリツイートやいいねをしただけでも法律上の罪になるっていうのはおかしいと思う。あと、ひき逃げの遺族が被告人に対する刑罰の軽さに納得いかなくて控訴したというニュースのコメ欄に「控訴したバカ」と書いただけで「侮辱罪」になるっていうのもおかしいと思う。私の解釈では、「侮辱」というのは対象の人物の価値を公然と貶めることだ。粘着アンチの目的は、対象人物がいかに無価値で愚かな人物か周囲に知らしめて評判を落とし、対象に孤立してもらうことだからだ。だから、一般ユーザーが常識の範囲内の頻度でリツイートやいいねしただけ(もちろんリツイートやいいねがたくさん集まって名誉毀損に至っていることはわかるが、情報を拡散させた無数の匿名の人々を逐一検挙するのはアホらしいし無意味だ。だって拡散する人の無邪気な悪意と、情報元になっている人の醜悪な憎悪とは別物だし)、「バカ」と一度書いただけで「侮辱」になるというのにはかなり違和感がある。さっきから「ちょっと」とか「だけ」とか「常識の範囲内で」とか書いているのは、「侮辱罪」が適切かどうかという問題は程度問題だからだ。そして、”程度”というのは個人によって異なるところが大きいので、「侮辱罪」の適用には非常に慎重にならなくてはいけないということだ(断っておくが、これは裁判で罪になるかどうか判断する人たちに対する意見であって、被害者が「侮辱罪」を狙って軽率に訴えるなということを言いたいのではない。前述したように法は感情でできているので、どんな程度であっても苦痛を感じた人が訴訟を起こすことには正当性があるという前提は理解している)。

 

長くなるのでいちいち書かないが、最近必要なので村田沙耶香コンビニ人間」の読解を深めるうちに現代がどんな時代でそれがキャンセルカルチャーや「侮辱罪」といかに関わっているかという話題に対しかなり感じる部分がある。それに伴ってさらに興味深いのが、潔癖症(他人を差別しいじめるようなやつを逆に徹底的に迫害・排除するようなイメージ)でリベラルなネットユーザーの中にも寛容性を発揮すべしとする対象の一部にブレがあるということだ。

たとえば障害者や性的少数者には呼称が与えられており、当事者の抱える困難の原因が本人にはないという理由も大きく関わって、社会的に彼らを受け入れ支援しようといって抵抗感のある人は少ないようだ。しかし、依然としてネット上に繁茂する「チー牛(弱者男性)」「デブ」「妊婦様、子連れ様」を筆頭として、ここに書き連ねることもはばかられるような残酷な蔑称をおもしろがって公の場で使用する者が後を絶たない。私の分析では、上に挙げたような被差別者は差別される原因が本人にあると広く考えられやすく、果たすべき責任を果たしていないとして痛烈に批判されるのだ。また、蔑称を作ること自体に”無意識下に多くの人の心の中に潜伏していた差別感情から共通項をとりだして抽象化し、大衆的なフレーズに言語化する”というテクニカルなゲーム性があって、新しい蔑称を作って流行らせること自体が目的化している側面がある。私は実際に「蔑称を思いついた人のセンス好き」とか「蔑称を考えられる人の頭脳が羨ましい」とかいうバカタレどもの書き込みを複数目にしたことがある。多分、彼らは本気で蔑称のつく人たちを憎悪しているわけではない。残虐性のある”言葉遊び”が、過激なリベラル的相互監視社会における鬱憤を晴らすために行われていて、みんな誰か始めに蔑称をつけて批判しはじめた人たちの言葉を借りて、他者の言葉を自分に内面化することで互いに殴り合っているのだ。このように、借り物の差別感情と過剰な自己顕示欲(近代以降のアイデンティティ消失の時代においては人間の永遠の課題であるから、誰だって無関係ではない深刻な病理)のないまぜになった鬱屈した心で殴り合うこと、同じ人を同じように殴る”同士”とつかの間の杯を交わし合うことが現代人のスタンダードなコミュニケーションになりつつある。

 

以上のようなことをまるまる象徴しているのが「侮辱罪」だと私は考えているっていうのに、まったくケツ穴確定みたいなおもしろいだけでイミのない言葉さえもノミネートされない流行語大賞だから、私が考えているようなことだって商業化と規格化の前には打ち消されてしまうことであるし、マジでスパイファミリーとチェンソーマンだけ見て寝てろってことだよな。ユーキャンってチョーSだぜ