wordpress

wordpressの日記( https://yajiriinu.wordpress.com/ )の移植版

ファインドミー

又吉直樹の「火花」を読み、ますます私は又吉であることを確信するに至ってきた。人生の全てを漫才という表現に賭している先輩に強く憧れ、自分もそうなろうとし、”神谷さんに褒められるならあとはなんでもいい”ぐらいの心境に染まっていきつつも自分は自分の道があると信じて独自ルートを探そうと懸命に格好つけ、気取っていることに自分でも気がつかないというこの視点人物(=又吉)、表現に気を配りつつも書き手の素直さ(脚色のなさ具合)をかなり感じる地の文、見事だった。毎日日記を書いているからこのような文体を獲得するまでどれほどの道のりがあったのか、具体的にはわからなくても決して近道ではなかったことが想像できる。というか、遠回りしても、人に読ませながらも素直であり続けるような文を大抵の人は書くことができない。

小説に興味がなかったから小説で賞を取ることが何を意味するのかはあまりよくわかっていない。どちらかといえば、どんな人がどんな意図で賞を与えているのかが気になっている。これは別に、賞に似つかわしくない作品ばかり受賞していると言いたいわけではない(でも、自分も2,30年後には三島由紀夫賞の候補作ぐらいは狙えるんちゃうか、おもてますけど)。もし全ての作品が永遠に保存されて恒久的に誰でもいつでも鑑賞できるような状態であるなら賞は必要ない。すべての作品は見つける人には見つけられるし、ちゃんと見られるし、個人の中で扱われたり批評されたりするから。しかし実際は誰にも見つけてもらえない作品は確実に、無数に存在していて、淘汰され消えてなくなる。過去どんなに名作ともてはやされた作品であっても、時が経って必要とされなくなってしまう運命から逃れられない。国会図書館の資料が有限なのもそのためだ。だからいくつかの優れた作品は確実に保存しておく必要があり、「賞付きだから」と根拠を示すことで何世代あとの人間にも読んでもらえるようにしている。

あー、賞。そもそもなぜ賞作ってまで人の表現物を残しておくのか、批評とかで与えられる価値の意味とは何なのか、こうやって何でもイミイミゆーてるから文学部いらないって話にもなっちゃうし、それにハッキリ反論できないとロンパロンパゆーて馬鹿にされる世の中になっちゃったし、えーごで「毒…」ゆーとけば「世の中」語れるわけともちゃいますし、いい加減人にどう見られるか考えることなんてやめなきゃいけないのに、賞があるから、「神谷さん」的存在がいるから、ウチら(又吉と私)こんなに苦しいのであって、決して「受賞作」がオレの作ったもんよりくだんなく見えるから批判されるわけとも違くて、ただこれは個人的な葛藤の問題だもんで、賞に妬んでるように見えるからといってそんなに!悪魔祓いみたいな武装、やめてくれよ。愛がほしいのとも、違うんで。母親ヅラしなくていいから。おまえらには何が見えてるんだ?こっちからは、宇宙人のきもち考えながら再生されるかもわからないレコード送ってるような、そんな感じなんですけどどうですか?