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wordpressの日記( https://yajiriinu.wordpress.com/ )の移植版

批評

批評を嫌わないでほしい。批評は対象となっている作品の価値をさらに拡大するためにいろいろな解釈の可能性を探ることであって、良い・悪いを言うだけの個人の感想や無責任な批判とは異なるものだから。そりゃ確かに勝手にいろいろ言われたらムカつくこともあるけど、作品は公の場に出た時点で作家の手を離れて変形する宿命を背負っているものだと思う。

 

以上のことは創作物を想定して書いたものだけど、人間を批評することに関してはどうだろう。面接はまさに人間の品評会になりがちな危うさを持っている。もちろん能力や実績や態度をあらかじめ企業が設けておいた基準と照らし合わせて到達度を測っているだけなら、人格の批評とは言えない。しかし、その能力とか実績とか態度とかが個人の人格とすごく近いところから生み出されるパラメーターなので、そういうところを既存の基準よりも深く吟味しようとするとすぐ人格について考えなくてはならなくなる。

大抵の人は自分の人格が批評されることを嫌うだろう、特に足りないところについて語られる場合は。批評は批判ではないので、足りないところがある場合はどのような視点において足りないとされるのか、足りないという事実にどんな意味があるのか、などとただのミスとして流さず検討する必要が生じる。そんなことされたら鬱陶しすぎる。ただでさえ自分でも見ないようにしているところをさっぱり否定してくれるでもなく探究されるのだから。面接の鬱陶しさは、そういった欠点を深堀りされるところにあるのだろう。職歴に空欄があったり、留年してたり、転職を短いスパンで繰り返していたりすると「なぜですか?」と意図を問われる。そんなもん、だりーからに決まってるけど、相手の批評が批判に変わる前にこちらから妥当性のある解釈を提示しなくてはならない。

私は多様な解釈が多様な面白みを生み、それが単に面白いだけでなく時代や時事に応じて変化する価値観に偶然接続できる可能性も孕んでいるところに批評の魅力を感じている。人格は面白いほうがいいのかもしれないけど、批評に耐えうる強度(いろんな角度から意味のある論じ方ができるような感じ)があるほうがいいというわけでもないので、批評される必要はない。必要もないし、人を不快にさせるのであればやめたほうが良い。ただし作品の批評は作家の人格の批評ではないっていうハナシ(D.O)