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wordpressの日記( https://yajiriinu.wordpress.com/ )の移植版

アウトサイダーは命

邦画を見ていると人間を陰湿に描く技術はトップクラスだと思う。これはdisではなく、傾向としてそう思う。悪質ないじめや仲間はずれ、暴言、人を人とも思わないような傍若無人ぶりを徹底的に見せてくれるのは邦画だけだ。私が知らないだけでそんないじめは日常的に起こっているのか?一部の本当に終わった集団の中ではありうるが、現実にはないと思っていたのに、邦画を見ていると本当に当たり前にある光景のように誰も解決しないいじめが描かれ続けていて常識が改変されようとしているようだ。

あ、言い忘れてたけどさっきから映画「神は見返りを求める」の話をしています。完全にネタバレをするが、最後のゴッティーのダンスこそが真のクリエイト行為であり、命の輝きであり、支持されるべき活動だと私のような者は思ってしまう。あのダンスはゴッティーがはじめて見返りを求めず他者の目を意識せず(見られることを求めず)心の奥底から湧き上がってきたものを表出したものであり、芸術の根源のありどころである。

アウトサイダーアートについて知ると特にそう思うのだが、美術史に残るためでもお金にかえるためでもなく、ただ自分の生の感覚を表出するためだけに人間は創作をしている。生きているといろいろなことが起こりすぎるので、そうしないではいられないのだろう。実は生きている誰もがゴッティーのダンス的な表現を常にせずにはいられないものであり、創作は人間が存在するために必要なものだ。もちろんゴッティーのダンスが傍から見たら異常者の錯乱にしか見えないのと同様に、創作といっても必ずしも周囲に価値が認められるものではない。しかし、ひたすらに自分のためだけに自分の内部に煮えたぎっている命を放出する行為は、芸術・創作・表現活動の根源であるという意味で重大な価値を持っている。私たちは、ゴッティーのダンスからそれを見出すことができる。というか、ゴッティーのダンスに説得力を持たせるために低俗配信者の話にしたんじゃないかと思う。

残念なことに、アウトサイダーアートと呼ばれる作品をつくった人たちは得てして不幸で、社会的なつながりとはほぼ無縁と言って良い生活を送っており、陰湿ないじめどころではない仕打ちを受けていることもままあるのが現実だ。ゴッティーもまともな幸せを享受できたわけではない。そこまでひどい逆境がないと芸術的な生き方はできないと言えるだろう。お前らはどう生きたい?命をどうやって使うかは命の所有者に委ねられているが、その決定権は生き物にとって重すぎると私は常々感じているのだが、お前らはどうすんの?私は絶対不老不死一択だけど。