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wordpressの日記( https://yajiriinu.wordpress.com/ )の移植版

心痛 流目(こころいため ながしめ)氏

友達がどんなことに心を痛めるか、私たちは気にしがちだ。たとえば児童虐待のニュースに心を痛めつつ、駅で寝ているホームレスには冷たい目を向ける人と友達で居続けることは可能だろうか。また、いじめやパワハラで自らの命を絶った人に心を痛めつつ、人身事故に「迷惑かけんな」と言い放つ人と友達で居続けることは可能だろうか。私はそのどちらとも近づきたくない。いくら親しくても、人間の心理のそういった矛盾点の醜い部分を見せられるとややつらいものがある。

したがって、心痛めの基準を人と話し合うことは、政治・宗教・野球の話と同じくらい禁忌的な行為であるといえるだろう。人が困ったり死んだりしているのを「自業自得じゃん」「だよね~」と言い合っているのを想像してみるとかなり嫌な気持ちになる。もちろん誰にも聞かれてない場所でお酒が入っているときにそういう会話するしいいじゃんという反論が決まって来るのも私は想定している。ええねん(トータス松本)と言いたくなる気持ちは私にもあるが、その場面を俯瞰視点で見たときにやはり醜いなと思うし、自分が醜い状態にあるのは耐えられないのが人間であるから、開き直らず醜さに対して誠実な態度をとり続ける生き方のほうが正しいような気がやはりしてくるものだ。

それでも心痛めの基準がどうしても垣間見えてしまう瞬間はあるだろう。その際はそっとスルーし、見なかったふりをする。だが、一般的に親しい関係を築いていく場合、見ないふりをしないですべて見た上で接していくのが定石だ。さりげなくそれを「見た」と匂わせつつ、自然に会話を進める。これは心痛めを流し目で見つめることを意味する。私たちの日常の中に心痛 流目(こころいため ながしめ)氏が介入する瞬間が存在している。

少なくとも、風邪や花粉症などの普通に治る病気を一切心配しない間柄の場合は常に心痛 流目(こころいため ながしめ)氏状態である。