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wordpressの日記( https://yajiriinu.wordpress.com/ )の移植版

デスノートの話させて

私はデスノートという作品がこんな名作とは知らなかった。絵もすごくいいが、主要キャラの引き際(死に方)がここしかないというタイミングでピタリと脚本にマッチしていて、違和感やストレスを感じないどころか感傷を超えた心地よさに誘われるようだ。

特にLの死については誰もが思い思いの気の持ち方をしたはずだ。特にLのファンの間では有名な話かと思われるが、夜神月の足を拭く行為は明らかに最後の晩餐におけるキリストのオマージュだ。キリストはユダが自分を裏切るとわかっていながらユダを含む十二使徒全員の足を平等に洗い、お前らも私みたいに互いの足を洗いあえと命じた。これは、自分がこれから死ぬのをわかっているからだ。自分が死んだあとも足を洗いなさいということ。そして、足を洗うこと(汚れをとってきれいにすること)は”赦し”を意味している。キリスト的な愛は”赦し”だ。Lは夜神月がキラなのもこれから殺されるのもわかった上で最後に愛を与えた。これも夜神の行為を許していたわけではなく、夜神という人に愛を与えたい気持ちだったから。このときのLの魂の静けさと深さに心を動かされない者はない。魂は命、ライフである。死と隣り合わせの状態にある生命としてあれだけ高貴に描かれているのは作中でLしかいない。Lは作家にとっても明らかに特別な存在だったといえよう。

対照的に、夜神の死は拍子抜けとも言えるくらいにくだらないものだったが、夜神というキャラクターはああいった最後を迎えるのが最も妥当だ。作家は夜神の不手際や推理不足ではなく第三者の過失を敗因にしている。これは「新世界の神になる」という目標の実現可能性を残したまま作品を終了させるための手段としてかなりよくできている。読み手は作品の始めから終わりまで夜神の能力の高さや思想の妥当性を見せられている(一人称視点が与えられているのは夜神月だけ)から、夜神がミスったのをきっかけにLやNなどの切れ者が妨害に成功する展開を見せられると本当に”拍子抜け”してしまう。え、夜神あんだけ賢かったのにこんなあっさりミスるの?これでは興ざめだ。しかし夜神みたいな調子こき野郎が醜く崩れていくところも見てみたい。そこで魅上という第三者を持ち出して、そいつのせいにする。しかも夜神は他者を完全に道具扱いしている(おもしろいけど、読み手にとってはこのままのさばられるのもストレスになる性質)から、道具に裏切られる展開は読み手のフラストレーションを解消させるメリットを生む。それに魅上は熱狂的キラ信者ということで、通常の判断能力が欠けている(頭のネジが飛んでる)部分があり、LやNと違ってどこか”確かに賢い”とは言わせない造形になっている。重大な過失をするキャラとして完璧だ。

当時リアタイでデスノートに触れてこなかった私は、美しいタイムカプセルを開けたかのような喜びを得ることができた。そういえば10年くらい前のニコニコはかなり無法地帯というかキモオタしか見ていないような雰囲気があったので、手書きMADを探すと腐女子向けのコンテンツばかりが再生数ランキングの上位を占めていた。当時は必ずランキングの上位5位以内には「L月」の文字列が含まれるタイトルの動画があった。私はこれが何を意味しているものなのかさっぱりわからなかった。しかし、今なら私もキラ事件のないif世界でLと月の魂が穏やかに繋がっていることを想像すると非常に心が安らぐような気持ちになる。Lはキリストであり、月は使徒だった。この事実が当時どれほどの読者を救済していたのか、在りし日のニコニコ動画の思い出が雄弁に語っていることだ。