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wordpressの日記( https://yajiriinu.wordpress.com/ )の移植版

帰宅部のアトリエ

帰宅部」というものについてどう思いますか?特にこれといったイメージはないだろう。学校に通っていたのはもう何年も前のことだが、私は帰宅部を一生貫き通した。その経験から言うと、帰宅部員には部活動というものを客観的に見る目が備わってしまっているものだ。

帰宅部にとって最も象徴的な出来事は文化祭である。出し物をせず、全校の出し物を冷めた目で批評する意地悪な立場におさまることができる。criticな人たちはほとんど全員帰宅部か文化部の幽霊部員か不登校児であるというのは有名な話だ。出し物の一部にはお金を徴収する類のものもある。特に大学の学園祭レベルともなれば、演劇にフリーマーケットにとちょっとしたショッピングモールとも言えるくらい買い物させられる。そのような場において帰宅部がやることといえば、そう。はじめて自分の作ったもので売り上げを得ることができた人たちの一部始終を観察することだ。

知ってのとおりモノは質がいいから売れるのではなく、周辺の情報に価値があるから売れるのだ。特に絵画や書籍はそうで、誰が書いたかというネームバリューと部数(希少価値)によって需要が大きく変わってくる。誰も知らない作家が同じような作品を大量に作ったとして、そんなものはたとえ質が良くたっていくらも売れない。その一方で超売れっ子芸人が手慰みに書いた一点モノの落書きは何千万という値段で即売れる。消費者は充実した内容ではなく情報により大きな価値を感じてモノを買っていく。学園祭に話を戻せば、文芸部の雑誌や軽音部のCDや演劇部のチケットは、その学校の学生が学園祭のために部活動のみんなで拵えた作品、という情報に価値が宿っていることになる。その部活が学校とも学園祭とも完全に独立して文フリとか劇場の前とかで作品を売ろうとしてもろくに売れないものだ。

しかし学園祭というものは学生の心を高揚させるものであるため、情報を買われていると知ってても知らなくても、出し物をしてモノが売れたら部員は大喜びするものだ。過半数の学生は作品が評価されたと感じて満足するだろう。私は残りの、もう少し冷静な学生の方に注目したい。彼らは理想主義者で、もっといいものを作れたのにとか、もっと本気になれたのにとか、現実上の部ならびに自分自身の実力からは目を背けて高いレベルを目指そうとする。どんなに作品が売れても、それは自分が学生(若者)で学校の部に所属しているから、つまり情報を買われたから売れただけに過ぎないと考える。ここからが面白くて、部活動以外の場面でその道を極めれば売れるはずだと思い込もうとするのである。奇妙なことに、彼らはどこまでいっても自分の実力に満足することがないため、独立したあとも100%実力だけで売れるとは考えていない。結局「学生の割にはすごい!」と評価されることに期待しているのだ。

端的に言って以上の流れはすべて部活動の本質からずれていると言わざるを得ず、帰宅部員からすれば噴飯モノだ。

本来、他者の評価に関わらず自分の納得するものを作れるようになるのが表現の目的であるのに、承認を必要とするとはどういうことか。私は部活動のこういうところに違和感を抱いている。職業作家やお笑いみたいな他人に評価されるまでがセットのことをしている場合は話が変わってくるが、学生の部活動なんて自分がいかに満足するかという一点のみに集中できる一番いい機会なのに、なに人の目を気にしているの?誰も見てないんだから安心して好きなこと好きなだけやって自己満足したらいいのに。やりたいことを一番のびのびやれるのは帰宅部であると、そういうふうに感じているんだけど。悲しくない?私は今、孤独なアトリエにこだまする口笛がなんの反響も伴ってこないことについて、風邪をひきそうなのですが…………………