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wordpressの日記( https://yajiriinu.wordpress.com/ )の移植版

卑屈バレンタイン2023

この記事は、屁理屈でバレンタイン前日の青春コンプレックスを慰めようという年1連載です。

 

普通にそのまま生活していると自己評価が下がっていくが、これは妥当なことだ。しかしそのせいで活力が失われ、有限な時間を自分でできる限りおもしろく過ごす工夫をしなくなってしまうのは問題である。

いま、チョコ関係のイベントごととそのお返しのイベントを意識する人が多くなっている時期だ。私には関係ないことだが、これを機に自信と表現について考えてみよう。人にプレゼントをあげるという行為には自分の気持ちを相手に示す目的もあれば、プレゼントするというイベントを主催しておもしろがりたいという自らの欲求を満たす目的も大いに含まれている。だから人に物をあげたり喜ばせようとしたりする人には、相手の気持ちはさておいて自分がそうしたいからそうするという主体性が基本的にはあるといえる。物をあげる・喜ばせるということは、自分の用意したものを相手に見せて何らかの感情を与えようとすることだから、一種の表現と言うこともできるのではないか。プレゼントが表現であるなら、表現も基本的には自分のやりたいという気持ちだけでしていいものだということになる。

しかしながら、前述のように妥当性を伴って低下していく自己評価によって筆を折りがちな者がいることを考えると、プレゼントも同様に自己評価が低いとできなくなってしまうことが懸念される。事実、チョコを贈るイベントが苦手で仕方ないという人の中には、自己評価が低いあまり世の中から自分の存在を消し去ってしまいたくて仕方がないのに存在してしまっているせいでチョコイベントに強制参加させられているのが苦痛だという意見もある。そう、本来主体を持って行われるべき選択性のイベントであるプレゼント行為が、自己評価の低い人にとってはプレッシャーになってしまうのだ。

繰り返すが、自己評価が下がるのは自然で妥当な現象だ。したがって世界中にプレゼントという表現活動を苦痛に感じるほど心に余裕がない人は多い。それなのに、チョコがもらえなかったからといって卑屈になるのは違うんじゃないか。表現を堂々とできる人は比率として少数派なんだから、チョコをあげたいのにあげられない人が圧倒的に多い現状では何ももらえないのが当たり前なのに、何を勝手に落ち込んでいるんですか?ごく少数の人間からチョコがもらえるほど心が立派だという自負があるのなら、プレゼントができない人の気持ちにこそ寄り添いなさいよ。そのほうがよっぽど、チョコから始まる恋愛より本質的だね。