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wordpressの日記( https://yajiriinu.wordpress.com/ )の移植版

写像

リアルの話に対してのインターネットが写像であるということとはまた別に、私たちが信じたいことと正しいことは一致・対応するものではない。あまりにも写像の話が有名だったからひろゆきの言うこと(そしてひろゆきの話し相手の言うこと)に耳を傾けてみたが、ものごとの正当性を語ろうとすると、どうしても主観的に信じようとしている前提ありきで話が進んでしまうようだった。そのやりとりは、テレビのための演出でなければ無用で醜いと私は感じた。

これを見ると、誰もが他者との衝突を避けながら生活しようとしているのも当然のことと思う。私たちの価値観、主張の中には必ず個人的な感情が含まれていて、それは論理的には間違っている部分もある。論理の正当性を主張するのは簡単だが、感情のそれを他人にわかるように説明することは難しい(説明できたとしても、感情の論理的な部分を訴えることが限界だ)。もちろん「なんとなくイヤだから」とか「そう思わないと気持ちがやりきれないから」といった感情論も全く間違っているわけではない(多くの人は自分の感情を否定されたら不快になるものであり、人が不快になることはしないほうがいいから、感情論を否定することは正しいとは言えない)が、お互いの感情がぶつかってしまった場合は双方同時に正しくもあり間違ってもいることになってしまうので、互いに正当性を示すことは難しくなってくる。しかも正当性を示すためのやりとりは無用で醜い。だから最初から波風を立てず、言いたいことも言わず、本音を晒さない、本当の自分なんて存在していない、という状態が一番いいこととして世間的に選択されている。

それにも関わらず、人間関係は希薄でないほうが望ましいという考えも同様に広く理解を得られている。衝突を避けながら親密な関係を築くとはどういうことだろう。もちろん相性が良くて全く衝突らしい衝突をしないまま親密になる仲もあるだろうが、世界中の人間の全ての人間関係の事例のうちそのようにうまくいくケースは5%くらいか、それ以下というくらいにはレアなものだ。つまり私たちは非常にレアなものを切望し、非常にレアなものを当然誰でも持っているべきものとし、非常にレアなものを持たない人々を社会不適合者として見下すことさえあるのだ。

私はそれを問題だと言いたいのではなくて、いつも私たちがどっぷり浸かっている世の中の一般的な考え方をニュートラルな目線から見るとどうなるか検討した上で目の前の人間に接するようにすれば、個人的な感情に支えられた信じたい世界を超えた部分にまで視野を広げることが可能になるので、95%以上の不可知で不快で面倒な存在としての他者が自分と同じ世界に生きていてもまあいいかという気になれるところに注目したい。いや、むしろ全員なんでそういう考え方できないの?だいたいさ、人の顔見てスゲー「うわっ、コイツの相手しなきゃいけないんだ……」みたいな顔するやつ、ナメてるよな?人のこと。そういうの顔見て声聞いたらすぐわかるね。第一声の子音聞いた時点でハイもうわかる。バレバレだから。マジでふざけんなよ。私の存在を許せよ。お前と私は写像じゃないが世界の写像は俺らだから。ハイ論破