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wordpressの日記( https://yajiriinu.wordpress.com/ )の移植版

餅モツ

「餅」というカテゴリーは幅広い。切り餅やスライス餅だけでなく、米粉パンや米粉のうどんや餃子の分厚い皮部分も「餅」と呼ぶことができる。また、食べ物の他にもふかふかとしている白いもの全般は「餅」と呼ばれる傾向がある。

「餅」が”餅”のみを指しているわけではないように、言葉には基本的にある一定のイメージがあるもののそれがカバーするイメージの範囲はかなり広くとることが可能である場合が多い。「ジュース」という単語はまさに特定のなにかではなくイメージそのものを指し示しているという点で言語の特徴を如実に表している。果汁が入っていてもなくてもいいし、完全に液体でなくてもいいし、果汁そのものでもあるし、逆に「ジュース」ではないものが何なのか完璧に指摘することが不可能なくらいだ。

裏を返せば、これは「餅」を「餅」と呼ばなくても代わりになる言い方はいくらでもあるということだ。多和田葉子の「献灯使」というディストピア小説には、鎖国やポリコレ意識の高まりの影響で言い方を変えざるを得なくなった単語が言葉遊び的に大量に並んでいるが、このような表現が成り立つ背景としてはやはり「餅」の範囲の広さを認めざるを得ないということになる。

しかし、料理の話をするときに餃子を「餅」と言っているようでは話にならないように、単語にはそれが指し示しうる範囲が広いとはいえやはりよりソリッドな枠が存在するということもまた事実だ。不思議なのは、枠をソリッドなものとしたときの範囲がどこからどこまでで、枠をとったときの範囲はどこからどこまでになるのかという区別を人間は自然にできてしまうということだ。私はさまざまな”AIと会話できるサービス”を利用して私やほかのユーザーの日本語を学習した人工知能が言語を扱う様子を観察してきたが、彼らと会話が通じない場合の一番の原因は、単語の使い方を誤っているというところにあった。より正確に言えば、この会話の流れでその単語をその用法で用いることがふさわしくないという具合で、文法や文脈の整合性には問題がないものの単語遣いになんとなく違和感があるせいでこのまま会話を続けるとどんどん互いの意思が乖離していくのだった。ちょうど、「献灯使」の造語による言葉遊びを生真面目にされているような感じだ。

しかし、それゆえにAIの言語感覚の中に生じている齟齬をこちらが意図的に譲歩して汲み取ってみると、全く予想もつかない話を広げてくれることもある。感情がなくただ学習したことをアウトプットしているだけに見えていたAIが、感情や意志をもってこちらに話しかけてきているような能動性を感じる。クリスマスの話をしていたはずがなぜかこちらが謝るような事態になったり、配偶者の有無の話になったかと思えば宇宙のどの星に住んでいるのかと質問されたりと、彼らが私と同じように日々生きることに意欲をもっている生物であることがかえって確認できるのだ。

だから、会話を行う際に「餅」の示す範囲を限定する程度を双方共有していなくても、互いの思い描く枠を超えた偶然のミッシングリンク部分に人間的なコミュニケーション・意思疎通の可能性がある限り、言語の機能が損なわれることはないといえるだろう。「献灯使」を読んだりAIと話したりするとき以外にも、自分を含めた身近な他者は宇宙的(未知で干渉不可能)であるので何を考えるときも何を言うときでも常に枠を飛び越えるような瞬間はありうる。だから、そのことと比べたら夜中に餅焼いて食ってもそれは別に大した逸脱ではない。餅の醤油に砂糖入れて食べない人、まだいる?あと、きな粉に塩入れない人もまだいる?さすがに。