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wordpressの日記( https://yajiriinu.wordpress.com/ )の移植版

笑いのすごさを論理的に説明しようよ

私は読んでいて笑えてくる、ギャグやユーモアに富んだ表現を見るのが好きだ。幼い頃はギャグマンガお笑い番組しか身近にユーモアがなく、それらをくだらね~と思いつつも熱心に見ているだけだったが、大人になればなるほど笑いのすごみを感じられるようになってきた。しかしその理由は単に笑うと気持ちがいいからだけではない。笑いに掛ける特別な熱意とかも別にない。ただ、客観的にユーモアには何か人を説得させるようなところがあると感じていた。それを今日初めて言語化してみよう。

 

まずこの動画を見なさい。日本語字幕があるから音を出さなくても良い!

官僚制が「カフカエスク」なら五輪も「カフカエスク」だ。それ以外のすべてのスポーツや美術や国家も、永遠に存在し続けるために存在していてそれに勝る存続の理由はほかにない。世界は本質的に「カフカエスク」であるから、世界は本質的に非合理的で不条理であるといえる。それにも関わらず人間が世界から合理的なことや道理にかなうことを見つけ出したり「カフカエスク」の改善を図ったりできるのは、動画でも示唆されているように、人間(動物)も本質的に「カフカエスク」だからだ。つまり存在するために存在しているという性質を人間(動物)も持っているから、自分の存在のために必要な世界の部分だけを”合理的で道理にかなう”と判断しているというわけだ。ということは、世界に観測者としての人間や動物がいなくなったとき、世界は永久に非合理的で不条理なものとして存在し続けることとなる。

カフカが偉いのは、その無機質な世界の真実のおかしさを発見し、そこに焦点を当てることによって普遍的な(どんな他者にも通じる)ユーモアに変えてしまったところだ。よく笑いは予想外なものによって引き起こされるというが、その”予想外”なものは特定のシチュエーション(「押すなよ」で押すとか)の中で完結するものだけでなく、まだ誰にも発見されていない世界の真実でさえユーモアを構成する部品として成立しうるということを、カフカは実証したのだ。

そうであるならば、まだ誰にも発見されていない世界の真実や新しい価値を探求する”学問”と笑いとは極めて近い領域に位置していることになる。カフカが文学でユーモアをやったように、ユーモラス哲学やユーモラス美術、ユーモラス数学にユーモラス物理学も成立するし、実際に例を挙げたらキリがないくらい存在している(そもそも、”予想外”のことを発見して表現するのが笑いなのであれば、世界の”予想外”を探求する”学問”はそれ自体がユーモアになりうる)。”学問”には、動画の最後に示されているとおり、人間が自分の手で生み出した社会の問題点をメタ的に認識することで改善する方法を考えられるようになるという社会的価値がある(哲学や美術は特にそうと言えるだろう)。したがって、この事実は笑いのすごさの根拠として提示するに十分なものとしてみなすことができる。

 

ユーモアと”学問”は非常に近い位置にあった。プロのスポーツ選手に判断力やひらめきが求められているように、笑いだってバカにはできない芸当なのだ。だから五輪も吉本も”学問”と同じくらい存在するために存在していなくてはいけない「カフカエスク」だし、非合理的で不条理なものであるにも関わらず、私たち「カフカエスク」な人間が存在するために必要なものであるが故に合理的で道理にかなうものであり続けるのだ。しかしいつまでもこの状態が続くとも限らない。近い将来、”学問”も五輪も吉本もくだらね~と思って「改善」しようとする流れが来るかもしれない。そうなると「カフカエスク」そのものにだって「改善」の手が伸びて、一切のものは存在していないほうがいいということになり、反出生主義が曲解されて世界を強制終了させようとする者が支持されるようになっても何もおかしくない。笑いの弱点はここにある。自らの存在がおびやかされても笑える人間がどれだけいるか?どんなに偉大な”学問”も、暴力には負ける。やはり暴力。暴力はすべてを解決する。