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wordpressの日記( https://yajiriinu.wordpress.com/ )の移植版

TB(トップバッター)

一番手になるという経験をしたことが誰の人生にもあることと思う。それも、どうでもいいような場ではなく絶対に失敗したくないという場でTBに抜擢されてしまったということが。そういうとき人はどんな気持ちになり、自分の気持ちにどのように対処していたのか気になる。

TBに抜擢されるまでの過程は複数考えられ、

1TBにふさわしいと周囲に推薦される

2くじびきやじゃんけんで偶然TBになる

3自らTBを志願する

多くの場合はこのいずれかに属する。いずれのルートにしても周囲の誰もTBになろうとしないケースが(特に1のような場合には)想定できる。場合分けして考えてみよう。

まず誰もTBになりたがらない場合、1のルートでは嫌な役回りを押し付けていることになる。押し付けられる人は、断れなさそうとかTBになっても平気そうとか思われており、本人の性格につけこんで適当な推薦理由をつければ気前よくやってくれるという周囲からの認知が背景にある。悪意というほどではないが、ずるをされているということだから、世の中にずるが蔓延ることを許さないという姿勢を保つために毅然とした態度で断らなくてはならない。こういう経験を多くしてきた人は注意したほうがいい。2のルートは最も一般的であるが、TBを初めから罰ゲーム的に扱っているあたり、くじやじゃけんを提案している人物(いつも同じ人が提案している可能性が高い)はかなり不真面目であると思われる。少なくともその仕事のことは完全に舐めていることだけは確かだ。その横着ぶりに我慢できない人が3のルートに進む。よく誤解されるが、TBを申し出る人はTBになりたいのではなく、TBを押し付けあう澱んだ空気を浄化したいだけだ。さっさと終わらせるほうが楽だからという理由もあるかもしれないがそれが一番の理由ではありえない。3のルートを多く経験する人は仕事に対する不純な態度を許さない性質を持っている。

稀だが、前述3のルートに進む人ばかり場に集まってTBの競争率が高くなっている場合も検討すると、まず1はありえない。仕事に真面目な人は周囲の人もみんな自分と同じレベルで誠実だしTBを狙うだけの熱意も実力も備わっていると考えるため、わざわざ他人を推薦することがないからだ。全員平等で互角と考えている。2のルートもない。あとは3をその場の多くの人がやって、その中で一番頑固な者がTBになる。

前者の場合だとTBは場を救うための贄でありメシアとみなされるが、後者の場合では貪欲で自己主張を抑えられない困った者として扱われる。人間は社会的な生き物だから、自分がどんなふうに見られているか多くの場合察知している。メシアと思われることについては自分の存在意義を曲がりながらも認められるということにいっときは満足するだろうが、贄といわれていい気持ちがする人はいないだろう。そこにどう立ち向かい、刹那的な満足感の裏にある真相から目を逸らさないでいられるかが問題だ。貪欲な困りモノという評価については、人によっては本当の意味で褒め言葉と捉える者もいる。しかしそれを心外に感じる人間は一度付いた自分の印象を払拭したいと思うだろう。そのために、まず自ら志願したTBの役回りを全うできるだけの活躍をしようとする。TBとして説得力があるぐらい優秀なメンバーになろうとするのだ。問題はそこからで、仕事に盲目になってより傲慢さを加速させるか、困りモノという印象を持たれている事実から目を背けずにいられるかだ。

いずれにしてもTBには諸々の課題がつきまとい、どれも自分の欠点から逃げない精神力を必要とするものである。こんな重たいものを背負ってまでTBをやりたいと思う人はいないから、みんなTBを避けようとするのだ。でもTBを経験したことがない人間なんて一人もいない。これはすごい事実だ。この世に生きる人は全員、人生のどこかのタイミングで戦いを経験しているということを意味しているから。