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wordpressの日記( https://yajiriinu.wordpress.com/ )の移植版

その戦車、拙者が運転者

ディスクユニオンのヒップホップの棚を見るといつもエミネムがあって、エミネムかそれ以外かというような分類になっている。つまりほかのどのヒップホップのCDよりもエミネムのCDのほうがたくさん置いてあるということで、これすなわちヒップホップはエミネムの寡占市場にあることを表している。しかし、これはあくまで私がたまたま行ったディスクユニオンのヒップホップの棚の上での出来事で、実際の音楽シーンがそうなっているはずはない。事実、ヒップホップが好きな人の話を聞くとみんなバラバラなラッパーの話をする。だいたいこのジャンルならこの人が有名でファンが多い、みたいな定番のアーティストがいないようで、若手もベテランも実力が認められさえすれば平等に評価されているらしかった。そして、かっこいい人は必ずどこかで誰かに見つけられるらしい。私が普段音楽の話をする相手は全員ナンバーガールキンキキッズの話をするから、ときどきヒップホップを本気で聞いている人と話すと非常に新鮮な気持ちになれる。

つまり、ヒップホップを好きになるということは能動的に音楽を探っていくリスナーになるということと同義だ。能動的に音楽を聞くなんて昔のサブカル系みたいな、いかに誰よりも早くよいものを見つけてドヤ顔するか競っているようにも見えるかもしれないが、それとはまた違っている。基本的に、能動的にあらゆるものに触れる活動はインプットと呼ばれている。インプットとはアウトプットを意識した上で生まれる概念だから、能動性とはつまり自分も何らかの方法でその文化を作っていく立場であろうとする態度のことだ。ヒップホップのリスナーは、昔のサブカル系よりも”このシーンを作っている”という意識が高く、音楽について語るときの言動には責任感を背負っているようなようすが伺えた。

そのような彼らに、「スヌーピー(犬)を見るたびにスヌープドッグのことを思い出してしまうのだが、スヌーピー=スヌープドッグという解釈でいいのか?」と聞いてみると、本当にそれで合ってるらしかったので非常に驚いた。元々ダジャレみたいなもんを歌にしてる音楽だから、私がこんなことを言っても馬鹿にするな・ふざけんなとは思われないようで、この寛容性・柔軟性もサブカル系には見られない美点だと感じた。不寛容なサブカルは解釈違いにブチギレるオタクみたいなもので、かなり見苦しいものだ。それと比べるとずいぶんフラットに接してくれるものだと感じ、まるで初対面の相手にも平気でジョークを飛ばし合い爆笑するアメリカ人の樽のような腹の起伏が連想され、私を非常に穏やかで愉快な気持ちにさせた。

今はヒップホップにもいろんな種類があって、少し前にミーム化したvaporwaveと融合したりMCバトルのようなエンタメが入口になっていたり、あらゆる角度から新規参入者が増えているみたいで、ひとくちにヒップホップといっても王道も正解もなく、ただそういうスタイル、文化として存在しているようだった。まるで同人活動のようなものだ。同人というのは昭和の時代からあって文学において同志で集まって自分の作風(スタイル)を確立させていってさまざまな角度から文学という文化に対する解釈を展開していくものだったから、ヒップホップ=同人と言っても間違ってはいないだろう。そう考えると、supremeの服が5万するのも納得いきませんか。