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wordpressの日記( https://yajiriinu.wordpress.com/ )の移植版

詩を書ける脳

脳が詩を書いているのではないという論が存在していることも大いに理解しているが、やはり優れた作家を見ると「頭のつくり」が違うやあという気がしてならない。物語でも詩でも、ふつうの日記みたいな文章では成立しない。だから、文章の表現物を生み出すときには、特別に気を配って構築するか、天性の肌感覚と経験でつくりあげちゃうかのどっちかになってくる。

たとえば、「元祖天才バカボンの春」を聞くとやはり「頭のつくり」が違うやあと思えてくる。

私はバカボンのこと何にも知らないからバカボンとは独立した見方しかできないが、この歌はかなり独特な歌詞をしているといえる。「枯れ葉散る」のに「白いテラス」、「粉雪舞う」のに「青い窓辺」というちぐはぐさにかえって情景を鮮烈に思わせるような効果があるし、「冷たい目で見ないで」と「冷たい涙流さないで」は対句でありながらも正反対な内容を表しているところに物語性を感じさせる。また、繰り返されている「特別の愛」、そして「春だから」と「パパだから」には、固有名をもたず「バカボンのパパ」という役名だけで呼ばれている彼に特有の哀愁がこもっている。作詞をした赤塚不二夫先生は、漫画を描く当事者でありながら、主人公の父母を役名でしか呼ばないという昔の家族もの漫画(ドラえもんあたしンちなど)によくある形式をメタ的ギャグとして昇華させている。これを現代ではなく昭和の時代にやるという感覚の鋭さに驚いた。

歌詞は、音楽と一体になっているという点で特徴的な詩の形式だ。音楽は、ほかの表現と違って時間(リズム)に支配されていて、定まった一定のリズムとともに過ぎ去っていくという点で特徴的だ。つまり音楽を聞くというのは経験であるから、その意味で同じ音楽を聞いたことがあるということはその人と同じ時間・空間を共有していることになるのだ。会ったこともない人と同じ時空間の中にいるなんて、ちょっとストレンジっすよね。ストレンジだし、歌詞のある音楽の場合はその詩のもつ感覚に思いを馳せることができるというのも、おもしろいっすよね。でも詩がいいからという理由で「元祖天才バカボンの春」をカラオケで歌ってもおじいちゃんにしかウケないという、ものっす。